スケジュール

久しぶりの青空である。
薫風とまでいかないが、さわやかな風が肌に心地いい。
ベランダの草花の花がらを摘んだり、鉢の置き場所を変えたりしている。


昨日植え込んだ紫の「スカピオサ」や可憐な花をつけている「おだまき」が
風に揺れている。
クリスマスローズの葉が大きく伸び、窮屈そうにしている。


生き生きと咲き誇る花たちを愛でていると、時間のたつのも忘れ
没頭してしまう。
まったく、こんなに花たちに心動かされることが
あっただろうかと、思う。


もっともこれまでは、朝出かけたら暗くなるまで帰宅しないし
休みはアタフタと出かけることを優先し、じっと見つめることなどなかった。


このところ、わたしの手帳のスケジュール欄は、白い。
埋まっていないことになる。
埋まっていないことが、嬉しい。


懐古趣味はないけれど、かつて手帳のスケジュールが
埋まっていないと、なぜだか不安を覚える時期もあった。
仕事がオフのときなど、友人と会ったり、やれ美術館だ、
映画だ、食事だ、といかにも忙しそうに出歩いていた。


それはそれで、意義がある。
それなりに愉しみ、会話の中から生きるヒントを得たり
仕事で気持ちが閉塞状態にあるときなど
ずいぶん、そうしたことで助けられた。
気分転換を図ることができたのだ。


いつ頃からだろうか。
人と接したい気持ちが薄らいでいるのは。


何日も前から約束などすると、圧迫感があり
しんどさを感じるようになっている。


電話も、しかり・・・
かつて携帯電話のない時代、友人や知人たちとの
長話しはおんなの特権とばかり興じていたものである。


夜、時間もたっぷりあるし友人の近況伺いでもしようかと
固定電話に手をかけるけれど、実行しないでいる。
急ぐ用事でもないし、また今度にしようとそのままになることが多い。


子育てや仕事に追われて生きていたころ、一番欲しかったのは「時間」だ。
しかも「ひとりになれる時間」である。


日中大勢に囲まれ、家に帰ると病気の夫がわたしの帰りを待ちわびている。
別邸に(入院)行っていないときは、食事の準備などして待ってくれて
いて、そのことについて感謝する気持ちがありながら、
一方では息がつまりそうな思いもあった。


職場からわが家に入るまで時々、道草をした。


薫り高いコーヒーを呑むというより
ひとりの時間を少しでも持ちたい気持ちがあり
静かなBGMを聴きながら文庫本に目を通す。
そんな、ささやかなことが至福に感じられるほど
ひとりの時間はわたしにとって貴重だった。


いま、たくさんの時間がある。
「退屈していないか?」
「毎日何をしているの?」と訊かれる。


退屈など、感じる暇がない。
社会の役に立つことをしているわけではないが
それなりに自分の中での生きる目標はあり
日々そのことを進捗させ、自らの糧としていることはある。


退職から1年近くを経たいまでも、早くから誰かと約束をしたり
スケジュールを入れたりは、したくない。
なるべく自分に負荷をかけたくない気持ちが強い。


マイペースでゆったりと、ひとりの時間を楽しむ。
これこそ、わたしが長いあいだ求めていたことではないのか。
人生の黄昏期に向かういま、自らの時間を大切に生きたいといつも思う。