母の味


実家から「チマキ」が届いた。
竹の皮で包んだ風流なこの食べ物を小さいころは
さほど好きではなかったが懐かしく「おいしいなぁ」と
感じるようになったのは年齢を経たせいか。


食べ方は、ひとくち大の大きさに切り醤油をかければよい。
黄な粉と黒糖を混ぜてまぶすのもいい。
わらび餅のようにふんわり口のなかで溶ける。
少し苦味があるように感じるのは材料の「灰汁」のせいである。


毎年、実家では5月の節句時分に作る。
筍の皮を洗い、もち米を前の晩から浸し、灰汁(あく)で蒸すこの作業は手間がかかる。
この灰汁にも最適なブランド?があるらしく、母は緑風が盆地に立つ季節になると
そわそわし「桐の灰汁が手に入った!と嬉しそうに言っていたものである。
今でも外に釜を置きマキを炊き、半日がかりで作る。


ちなみにわたしの実家は、「そのまんま東」が有名にした宮崎の都城である。
都城は、島津藩の誕生の地であり、明治に至るまで島津家の統治下にあり、
明治維新当初は都城県として発足、その後宮崎県の発足に伴って
宮崎県に編入され現在にいたる。


実家の兄嫁は嫁してからずっと、姑である母に添って「チマキ作り」をやってきた。
母の味を一番受け継いでいるのは、義姉だろうか。


親戚うちでも評判が良くこの季節になると従兄弟などが、わが家を訪れ
お茶受けに出す、チマキを「オバサン(亡母)とこのが一番うまい!」と誉めそやす。
だんだんとこの面倒な手作りをする家が減っている。
郷土の特産品として販売もされているが、やはり大量生産されたものとは
ひと味、違うような気がしている。


チマキは(粽)・・・(ウイキから)

『日本ではもともとササではなくチガヤの葉で巻いて
作られたため“ちまき”と呼ばれる。
承平年間(931〜938)に編纂された『倭名類聚鈔』には
「和名知萬木」という名で項目があり、もち米を植物の葉で包み、
これを灰汁で煮込むという製法が記載されている。
元々は灰汁の持つ殺菌力や防腐性を用いた保存食であった。
その後、各地で改良や簡略化が行われ、
特に京では餅の中に餡を包み込んだり、
餅を葛餅に替えるなど和菓子化していった。』と言われる。


チマキはあくまきとも呼ばれている。
灰汁に殺菌効果があり、あくまきは日持ちがよいため保存食としての役割もあった。
秀吉の朝鮮の役や、関ケ原の戦いで薩摩兵児(へこ)は
兵糧食として携帯したと伝えられている。


この伝統あるチマキ作りは、母の味をしっかり覚え、実家に根付いている。
その母が逝き丸6年が過ぎた。
毎年この「母の味」を送ってくれる義姉に感謝している。


故郷は昔ながらの粽かな。
 ー高浜虚子――