読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

本を読む愉しみ


『序の舞』(1936)
上村松園 (1875-1949)
東京芸術大学所蔵



子どものころから本を読むことが好きだった。
アンデルセンや文学全集から小説に至るまで、暇さえあると読みふけっていた。
社会人になってからも、小説や専門書の類にまで読書に没頭し、
活字の虫のようだと自分でも思っている。


辛いことや悲しいことがあるとその世界に入り込み、しばし
現実世界を忘れることができた。
大きな気分転換である。
ずいぶんと本を読むことで救われた気がしている。
自分の体験し得ないことを本は教えてくれ、多くのことを学んでいる。


昨年から自由に時間を繰れるようになり、その最たる恩恵は
ゆっくり本を読めることだ。
読書は、最大にして身近な娯楽でもある。


濫読だから作者の傾向は多彩だ。
30代のエネルギッシュなころ、一番惹かれた作家は「森瑶子」だろうか。
都会の大人の男とおんなの、恋愛、軋轢、不倫など切なさや辛らつな感情を
さらりと表現していて、鋭くて温かい文章が好きだった。
彼女は胃がんで50代の若さで他界している。
「作品を生むのはからだを削ること」の言葉通り、短い生涯を閉じた。
繊細で華やかでおしゃれで、モノの考え方も30代のわたしには
ずいぶんと刺激があり、大阪での講演も何回か聴きに行った。
握手をしてもらった感触を今でも忘れない。
若い女性のようにしなやかで柔らかだった。


ミーハーな印象の林真理子の作品もけっこう読んでいる。
コピーライターから出発した彼女の作品は現代の若い女性に受け、どちらかというと
すこし軽薄?な感じが否めなかったが、いつごろからか、「帝の女」や「柳原白蓮」など
史実に基づいた作品が多くなり感銘を受けるようになった。
今でも好きな作家のひとりである。

瀬戸内寂聴向田邦子や、藤沢周平も好きだ。
枚挙に暇がない。


3年ほど前からは、大正時代や昭和初期生まれの作家の作品に魅入られている。
司馬遼太郎はもとより、北壮夫や山口瞳、そして宮尾登美子である。


宮尾登美子の小説は、特に好きで読み漁った。
満州でのモノのない暮らし、身も凍るような地元人との生活は
恐ろしいほどの迫力があり、満州から引き上げるまでを綴った「朱夏」や
歌舞伎の世界のなかで耐えて耐え忍んで団十郎を支え、
ようやく妻になった女性の生涯を描いた「きのね」、
そして画家、上村松園の幼いころからの
絵に対する情熱と松園の夢を実現させるために彼女を
支えた母親の生涯までを、質実にして華麗に綴った小説
「序の舞」が強く印象に残っている。
母親なしでは、画家上村松園の誕生はありえない。
もう一度読み返したいぐらいである。


図書館通いもよくしたけれど返却期間が気になり、手許に置きたい本は
やっぱり書店で求めることが多い。
新刊本を探す喜び、雑誌をめくることも、ときめきを覚える。


雑誌は「家庭画報」のファンであり、「婦人公論」も愛読していた。
あざやかなグラビアに目を奪われ、手記なども好んで読んだ。


とにかく活字ならば、折込みのチラシのたぐいまで目を通す中毒人である。
最近は、読む傾向も少し変わり前述した旧い作家の作品にシフトしている。


そしていまは、それらの本を探すのに書店ではなく、「ブック・オフ」などの
古本屋で求めることが多くなっている。
散歩の途中、覗くのも楽しみのひとつだ。


宮尾作品は読み尽くしたように思っていたが、まだあった!
例によって散歩の途中に寄った古本屋でみつけたのだ。
本の紹介にも、記載されてないような古い本である。
引っ越すときに古書店に出されたものだろうか。
一度に5冊もみつけ、宝物を探し当てた気分である。
古い作品は新刊書店で探すのは難しい。
時々、ネットでまとめて買うこともあり、それもまた楽しい。


佐藤愛子のエッセイや小説もおもしろい。
特にエッセイなどは時代の流れやモノの考え方、捉え方に深く共感することが
多く、数十年も前に書かれたものをいま読み返しても新鮮でこころに染み入る。


わたしが体験できない異なる人生を読書はもたらし、豊かにしてくれる。
本とじっくり向き合えるいま、至福を感じる。



読書は充実した人間をつくり、会話は機転の利く人間をつくり
執筆は緻密な人間をつくる。
 −フランシス・ベーコン −




天津乙女