「しっかり者の女房が・・・」


「まあまあの人生だったかな。
それにしても朝鮮からの引揚げの旅は、ひどかった。
あれは思い出したくないし、語りたくもない」

「アンコール・ワットの拓本を大阪市立美術館
寄贈できてよかった。あれはこの世に一つしか存在しない」
こんなことを想いながら冥土への旅立ちを
95歳のM氏はしたのではないかと思っている。


S市在住の拓本研究家M氏は、市の地元の公園「石ぶみの丘」などに
文学碑やレリーフなどを寄贈している、知る人ぞ知る有名人である。
一方では、著名な女流歌人のご尊父にあたる。


数々の功績を残したM氏は逝かれるまで、
闊達に自立した生活を送っていた。
最初の妻を病気で亡くして以来、不便な
ひとり暮らしであったが、再婚した。
その再婚した妻は15年ほど連れ添ったのち、
病で夫より早く他界している。
その後にも3年ほど生活をともにした女性がいたが、その人も病で
失っており、結局3回、妻を看送ったことになる。
もっともあとの2人は、入籍はしていない。


それにも懲りずやっぱり一緒にいてくれる女性が欲しい。
M氏は拓本や表装の教室を数箇所持っている関係から
その受講生を始め、異性とのご縁や情報には事欠かない。


拓本には無関係の女性で30歳ぐらい年下の女性と知り合い、
生活をともに始めたのは、M氏が90歳をこえていた頃である。
いまどき90代の人のところに嫁す女性も珍しい。
はっきり言って男には、あとがない!
しかし、その女性の持ち物といえば沢山の「洋服ばっかり」で
年金すら掛けていない人生だったようだ。
ことほど左様に、気に入らないことが目に付き、
即離縁で追い出した。


次に現れた女性は76歳の元気なスポーツウーマン。
M氏と同居するときのご婦人の言葉が勇ましい。

「わたしの再婚相手は3人いたが、その中であなたが一番お金がない」
「でもあなたが、一番良い人に思えたのであんたを選んだ!
 わたしには夫の遺族年金もあるしお金には不自由していない」

ということで、双方の子供たちとも面談の上で了承を得て、
籍を入れないことを条件に一緒に暮らし始めたのだ。


93歳にしてみれば、ひとりになってのち
買出しに行かなくてもいいし、
身の回りのことすべてやってくれる。
人生に華が咲いたようで嬉しい。
当初はシッカリ者の新妻にぞっこん惚れ込んで
「いい嫁さんがきた」などとノロケていた。


自転車に小児がするように大型補助輪を
つけて走っていたが、その自転車も乗らなくなった。
しかし公園の花と句碑の管理に毎日欠かさず見回りを
して手入れをしたり、せっかく自腹で購入した
牡丹の数株を盗まれて「花泥棒も泥棒です」と
立て看板をつけたりして元気さを保っていた。


76歳の新妻は元気で趣味のゲートボールに励み
地区のゲートボールの大会にもせっせと出ている。
さぞや、しあわせに暮らしているだろうと思い、
しばらくして、M氏に会うと彼はうかない顔をしている。
訊くと「いやぁまいった!」と真剣に困っている。
「シッカリ者も良いがキツイネー」とぼやき始めたのである。


新妻がゲートボールに出かけて行くのはいっこうに構わない。
留守をする際には、掃除、洗濯をすませ、食事も
キチット準備をして出かけるのでなんら異存はない。


問題は、M氏の生活を毎日朝から就寝まで管理し、
気が休まることがない。
やれご飯は何時、お風呂は何時、と追い立てられる。
「もうかなわん!一緒に暮らすのはやめにしたい」と
真剣に思い悩んでいたようだ。


いっけん、贅沢な悩みのようにも受け止められる。
しかし・・・M氏は本気だった。
ところが、あっという間に彼は人事不省となり、
緊急入院し意識のないまま
数ヶ月のちにあの世へと逝ってしまった。


もっとゆっくり、それまでの暮らしのように、好きなときに
好きなものを食べ、寝たいときに寝る。
90余年続けたこれまでの生活であったならば、
こんなにあっけなくこの世とおさらばしなくて
済んだのではないかと思うような出来事である。


人間は、何ごとも「過ぎたるは及ばざるが如し」で
ほどほどの生活に無理がなくバランスが取れているのがいい。


M氏は90歳を過ぎてから、突然に管理される生活となり、
心と身体のバランスを欠いてしまったのではないかとかと思える。
それにしても95歳は長寿であり、朝鮮での生活など2人分の
人生を体験したM氏はそれなりに幸福だったのではないか。
氏の冥福を祈るしだいである。



ゆり・シナバー