「人生80年」死生観見失う

・・・・宗教家・山折哲雄氏のY紙の本日付け記事から・・・
強くこころに残ったので、少し抜粋する。


以下抜粋 ※※※


百歳をこえる老人たちの行方不明が、まだ増え続けている。
放置された白骨遺体の露見がことの発端だった。
気がついてみれば、それは独居老人の増加や孤独死と
いった問題とも無関係ではなかったろうか。


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死と向き合う、ということで言えば、我々はこれまで死に行く者たちを
いったいどのように看送ってきたのだろうか。
長いあいだ「葬送」と言い慣わしていたことに気づく。
死に行く者を葬り、他界に送り届けるという意味である。
死者の魂が遺体から抜け出て天国や浄土におもむく、
その霊魂を送る、ことから「葬送」と言う言葉を用いてきた。


それが戦後になり「告別」という言葉に代わった。
死者を送るという感覚が薄れて、死者との別れを強くする時代が到来。
天国や浄土の観念が消え、他界におもむく死者の魂の行方が不明になった。
これが約半世紀つづき、気がつくと「直葬」という言葉が流行りだした。
通夜や葬儀を略して遺体を直接火葬場に運ぶ。


「告別」の段階から「遺体処理」のステージへの
新展開といっていいかもしれない。
生ゴミの処理に近い死体処理の気配が立ち上る。
荒涼たるこころの風景をあからさまに
みせつけられているような気分になる。


戦後の我々のたどってきた葬送、告別、遺体処理の
プロセスを追うとあっというまに見えてくるのが、
人生80年という高齢社会を迎えていたという現実。


人生50年時代のモデルは何だったのかと反省すると
「死生観」という考え方だったのではないか。
生きることは、死を受け入れること、死を覚悟すること、
死を覚悟する心構えこそが生の豊かさをもたらす。


この死生観モデルが、人生80年時代を迎えて崩壊の
危機に瀕しているではないか。
なぜなら、その生と死のあいだに病と老いの問題が割り込んできて
わがもの顔に振舞いだした。
それが今日、年金、医療、介護の問題として浮上している。


われわれの社会はこれから先、かつての「死生観」に代わる新しい時代の
人生モデルを見つけ出すことができるだろうか。
一病息災といったかつての生きるための知恵、そして翁の表情に
老熟の輝きを追い求めようとしたころのたたずまいを
取り戻すことができるだろうか。


以上 抜粋 終わり


山折氏の記事を抜粋してみたが
いま現実に起こっている高齢者問題のみならず
幼児虐待などの要因がこのコラムに凝縮されているように思う。


「同居」となっている自分の親が生きているのか死んでいるのか
わからないという家族が、いることの現実。
人が死にゆくとき、死んでまでも「モノ」のように扱う直葬のあり方。
氏が指摘しているようにこころが寒々としてくる。
あまりも人間を軽く見てはしないだろうか。



生と死が同じ比重で受け止められている「死生観」というものを
大切にしたい。