「感度」を磨く

1歳と3歳の子どもを育児放棄して死なせた若い母親は
後の報道によると今になって自分の子どもを
死なせたことを悔いているようだ。


結果論であるけれど、いま少しの悔いがあるならば
どうして早く思いとどまらなかったのか、と残念でならない。
もう、かけがえのない子どもは帰ってこないのだ。


また通報を受けながら、助けてあげることが出来なかったことについて
いろいろ検証や推論されたりもしている。


虐待を疑っても通報することに「もし間違っていたら・・」
という懸念があり、実行に移せなかったひとも多くいた。
行動に移すのも大変な勇気がいる。


家族や近親者の自死や死は、まわりの人間の心にも大きな影響を与える。
「どうして救ってあげられなかったのか」という悔恨にさいなまされる。
今回のこの事件も、同じマンションに住んでいたという若い女性たちが
涙ながらに、「助けてあげられなかった」ことを悔いている。
そして遅まきながら、住人同士コミュニケーションの場を持とうと
自助グループが結成された。
触れ合いはなくとも、人間らしい感情が残っている証だろうか。


ようやくの思いで通報しても、受ける側が「緊急性なし」と
判断され保留などにされたら、もう処置なしである。
この「緊急性なし」の価値判断が曲者だと思える。


確かに担当部署は、日々膨大な案件を抱えている。
担当業務のひとの多忙や言い分も理解できる。
しかしそれは理由にはならない。
要するに「感度の鈍さ」がありはしないだろうかと思う。
危機管理意識やプロ意識が薄いようにも思える。


今回は専門家と言うより、担当が煩雑に替わり
それまで土木に従事していた者が何の訓練も履歴も持ち合わせていず
いきなり、そのセクションの担当になったことも、
「事の重大性」をじゅうぶん認識できないことに拍車がかかっている。


あのような情報を何度も聞き、訪問しても肝心の保護者に会えなかったと
そのまま引き下がり放置できる感性。
専門家でなくとも、そのあたりのことは感度を研ぎ澄ませば
もっと深く対処できるのではないだろか。
怠慢のそしりはぬぐえない。


感度の鈍さは想像力の欠如にも起因し
後先のことも考えずに簡単に物事を捉え、行動に移す。
余談だが、地位も分別もある大人がその欠如ゆえに人生を
棒に振る例はあまたある。


感度の鈍さ→想像力の欠如→危機管理意識の欠如・・・を憂慮する。