喪失の痛み


シニア・ナビのGさんの「義父のこと」を読んで胸を打たれた。
そして改めて、伴侶に先立たれた者の哀しみを思った。
相方を失う悲しみはストレスの中でも一番大きいとされ
立ち直るのは、容易ではない。
まして高齢であるならば、その胸中はいかばかりか、と思う。


幸いにして、Gさんの舅さんは、親孝行な子息や息女に恵まれ
住環境も、申し分ないように思われる。
深い悲しみにある舅さんは、それだけでも救われる感じがして
他人事ながら良かったなぁという思いはある。


一方で、もうすぐ100日を迎えんとする舅さんの寂しさが
わかるような気もする。
どんなにまわりが手厚くいたわってくれても、この何とも言えない
喪失感や寂寥感から脱するのは、他が考えるほど簡単ではない。


階下に住むわたしの知人は、再婚で婚姻期間が短かったにも関わらず
夫に先立たれたあと、その悲しみを癒すのに6年以上かかっている。
ずっと泣いて暮らしていたと言っても過言ではないぐらいだ。
何をしても心が晴れず、手につかない。
夫の逝去のころに産まれた孫にも関心が薄く
気持ちがそれどころではなかった、という。
これではいけないと自らを奮い立たせ自助グループに参加し
同じ境遇の人と哀しみを分かち合い
吐き出すことで、少しずつ癒されていったようである。
この自助グループでの吐露が少しずつ、彼女を癒すのに
役立ったようだ。


わたしの場合は仕事をしていたことが、大きな手助けになったけれど
近親者を喪うというのは、悔いもあり、心に大きな憂いを残す。
どんなにまわりが、「きちんと向き合ったから悔いはないだろう」と
言ってくれても本人には、そう思えないのだ。


哀しみを癒すのは「時間」である。
時間の経過とともに、薄紙がはがれるように
気持ちが安らいでいく。


いま、Gさんの舅さんに必要なのは、励ましやねぎらいではなく
「亡くなった妻の思い出話しをたくさんすること」である、と思う。
黙って寄り添い、話を聴いてあげる。
そういうことを繰り返しているうちに、少しずつ
現実を受け入れるようになり、寂寥が薄れる。


どうか、焦らず、父上の気持ちに寄り添い、元気を取り戻すまで
見守って欲しいものと、他人事ながら願う。



よめなとベニシジミ(蝶)