「100%正しい忠告はまず役に立たない」


ともかく正しいこと、しかも100%正しいことを言うのが、好きなひとがいる。
非行少年に向かって「非行をやめなさい」とかタバコをすっているひとに
「タバコはやめなさい」と言う。
いつ誰がどこで聞いても正しいことを言うので
言われたほうは「はい」と聞くか、黙って聞いているほうが
得策、ということになる。


正しいことを言ってはいけないなどということはない。
しかし、それはまず役に立たないことくらいは知っておくべきである。
たとえば、野球のコーチが打席にはいる選手に「ヒットを打て」と言えば
これは100%正しい忠告だが、まず役に立つ忠告ではない。


ところが、そのコーチが相手の投手は勝負球にカーブを
投げてくるぞ、と言ったとき、それは役にたつだろうが
100%正しいかどうかはわからない。


敵はウラをかいてくることだってありうる。
あれもある、これもある、と考えていては、コーチは何も言えなくなる。
そのなかであえて、何かを言うとき彼は「その時その場の真実」に
賭けることになる。


このあたりに忠告することの難しさ、面白さがある。


ひょっとすると失敗するかも知れぬ。
しかしこの際はこれだという決意をもってするから、忠告は生きてくる。
己を賭けることもなく、責任をとる気もなく100%正しいことを
言うだけで、ひとの役に立とうとするのは虫がよすぎる。


100%正しい忠告は、まず役に立たないが、
あるとき、ある人に役立った忠告が、100%正しいとは
言いがたいことも、もちろんである。
人間は嬉しくなってそれを普遍的真理のように思い勝ちである。


ある宗教家が「死にたいという人に本当に死ぬ人はいない」と思い込み
「自殺をしたい」と言う人に、それなら自殺のしかたを教えてやろうと
死に方を教えると、そのひとは、びくついて自殺を断念した。
それに味をしめて、その宗教家が次の人にも同じ手を使ったら
そのひとが言われたとおりの方法で自殺をしてしまい、すっかり落ち込んだ。


これは極端な例であるが、1回目のときは相当に自分を賭けて
言っているのに、2回目になると、前のようにうまくやろうと思って
慢心が生じたり、小手先のことになって、
己を賭ける度合いが軽くなっているために、うまくゆかないのである。


以上は、河合隼雄 「こころの処方箋」より


ということで、他に対するアドバイスは、難しい。
わたしもそういうことに遭遇すると、いつも真剣勝負である。
実際、役に立つかも知れないし、立たないかもしれない、と
自らに言い聞かせているところがある。