「いろいろ、やってみたいのよネ」

80歳の知人女性がパソコンを習いたい、ということで
散歩の途中に彼女宅に寄ってみた。


長年、自宅で看ていた夫はいま近くの介護施設にいる。
ご自身もその疲れから体調を崩し、腰も悪くするなど
して入院されていたことは前回記した。


訪れるとセピア色の陽が、キッチンにもリビングにも射していて
自分で育てたというベージュの薔薇が、かすかに匂っている。
黄色のシンピジユムも毎年たくさんの花を咲かせるのだそうだ。
つぼみも生き生きと開花の準備中である。
手入れの行き届いた感じを受ける。


「たくさん株ができたから差し上げるわ」
いとも簡単に言ってくれるけれど、それらは育てるのに難しい花ばかり。
最近、クリスマスローズを次々と、枯らしてしまったわたしは、
いま花を育てることに自信をなくしている。
ていねいに辞退した。


暖かい日差しのなか、ミシンを引っ張り出し衣類のリフォーム中である。
若いころお気に入りだったというコートが
素敵なベストに変わっていて驚いた。
ぜんぜん旧さを感じさせない。
既製服でも、こんなおしゃれなのは、みつからない。


壁には以前、習っていたというかぼちゃの「ちぎり絵」が額に入っている。
素朴でぬくもりのある色彩である。
野菜や果物の静物を描写したものも見せていただいた。


「詩吟もずっと姉とやっていたのだけど、もう通うのがちょっと・・」と
趣味を充実させた、素敵な生活の一端を覗く感じがする。


「パソコンは少し習ったけど、家に帰ったらすぐ忘れるしきちんと、やってみたいの」
「何でもいろいろ、やってみたいと思ってしまうの」
笑いながら照れて話す彼女は、まるで童女のようである。


このような意気揚々とした話を訊くとわたしも、嬉しくなってくる。
微力ながらご縁になりたい、と思えてくる。


高齢者イコール介護という図式が多いなか、自立した生活を
きちんと営み、かつ精神の糧を得ようとしている
彼女に、エールを送りたい。


自立とは、何なのかと考えるとき、やはり老若問わず
「自分の面倒は自分でみる」ということではないだろうか。


毎日の食材も自分で買い物し、自分で料理をして、食べる。
料理は創作であるし、脳にもとてもいい。
掃除や洗濯など日々の雑事もできる範囲で、
自分でやると適度な運動効果がある。


こうした小さな、あたり前の日常の積み重ねが
精神と肉体の活性化につながるだろう。
医者いらずになるような気がする。


日々の生活のなかに、愉しみごとをみつけ実践することは、
豊かな人生の終焉にもつながりそうである。
80歳の彼女の好奇心旺盛な生き方を見ていて改めて、そう思った。


「いろいろ、やってみたいのよね!」
この言葉に感銘している。


カトレア 咲くやこの花館にて(大阪)