「画竜点睛を欠く」

先月京都国立近代美術館で観た上村松園の展覧会は、今週末で閉幕する。
松園の息もつかせぬ作品を堪能したひとは多いのではないだろうか。
画集を求め、ためつがえす、眺めているわたしであるが
その画集の解説に少し違和感を覚えている。


東京国立近代美術館の館長の辞に続き、同館学芸員による作品に関しての詳細な
絵画の描写など、かなりの紙幅で掲載されていてそれは見事な“花言巧語”である。


上村松園については、事実を徹底的に調査して実在の人物
天璋院篤姫東福門院和子の涙など)を書き上げた宮尾登美子
小説「序の舞」の主人公であるが、彼女の生い立ちや絵を描く上での
苦悩や凄惨ないじめを受けるなか母親の助けを得て、
画家として成功していく姿が序実にしるされている。


明治維新から、わずか8年後(1875年)に生を受けた上村松園は、
人生の中で、“真善美”を求めて多くの作品を描き、まさに論語に言う
『子曰、知者不惑、仁者不憂、勇者不懼(知者は惑わず、仁者は憂えず、
勇者は懼れず)』の人生を貫いたのではないかと想っている。


しかし、画学生のころ、未だ江戸時代の因習が深く残る京都で、
父親ほども歳の差のある妻子もちの師、鈴木松年と恋仲になり、
最初の子どもを身ごもっている。


人知れず、生まれた子どもは女の子で、すぐに里子に出されるが
流行の病で早世する。
このときの松園の嘆き、苦しみ、後悔は
同じ女性として胸がしめつけられる。


鈴木松年に内緒で子どもを生み、そして亡くした松園は、
新たに師をみつけ入門するが、ことごとく罵倒され
居心地は悪く死ぬほどつらい。
入水しかけるが、亡き女の子の泣き声で思いとどまった。


このときの母と子の思いをしたためたのが「母子」である。
自らが育てられなかった女の子とわが身の心情が痛いほど伝わる。



[[しかし制作年度不詳ということもあるせいか、
現代では絵のなかの「母子」は孫の淳之とその母親というふうに、
さらりと解説されている。


この「母子」が入選し最初の師、鈴木松年と、またよりが戻ることから
その当時、若いころに描かれたものだとはっきりしている。
「母子」の背景にこのような辛く、えぐるような深い哀しみと思いが
あることを知って作品を見るとよりよく、理解できる。


松園の人生の真実を解説に記すことが画家の作品を正しく
理解する為に必要ではないのか。
生半可な認識で松園の色恋(これは人の生そのものの姿である)を
後世の人間が嫌らしい行為と見做して、意識して排除することに疑問を感ずる。


人間には、食欲も性欲もある。
それが人間の本性であり、それらが人間の生命の継続の源でもあり、
また、そのことが芸術作品(文学、音楽、絵画など)の制作の動機となっており、
人間の様々な営みが作品に深みを与えるとわたしは、認識している。


「焔」についても同じことが言える。


絵を描く上でのスランプから立ち上がったのがこの作品だと解説されている。
確かにそうした状況もあったと想像できるが実際は、
年下の男との恋愛が成就されなかったことの懊悩が彼女の心に占めており、
そうしたすべての怨念をこの画にぶっつけて嫉妬心から立ち直ったのが
この作品なのであると、宮尾登美子は筆をすすめている。


事実、松園はこの作品を書き上げてから三年間は、何も制作していない。
画の完成により放念したのではないかと推察する。
このことも、やはり上村松園の作品を理解するうえで
見逃せない大切な要点ではないか、と思える。


懇切丁寧で“花言巧語”画集の解説は、
明治、大正、昭和に生きた先駆的女流画家の真の人生を覆ってしまう。
これは“画竜点睛を欠く”ことに、他ならない。


松園は女性初の文化勲章の受章者(昭和23年)であり、
子息、上村松篁も同じく文化勲章の受章者(昭和59年)である。
文化勲章を受章した親子が他にいるかは調べていないが、畏るべき母、松園でもある]]。