「共依存」の関係

ある方のブログを最近、訪問するようになっている。
長いあいだ気にかけていた。


Fさんはある病を発症し、それをおして職に就き、働き
妻との関係、子どもとの関係修復に一生懸命だ。
その姿に胸打たれ、また痛む思いもある。
一日も早い回復と、少しでも安定した状態が
続くことを願うばかりである。


自分の病が原因で、子どもとの関係が悪化し
夫婦の溝ができて辛い、と自分を責め
自らが働く姿を見せることで、子どもとの溝が埋まることや
妻とのあいだが良好に保たれることを切に願っている。


投薬と自己コントロールを試みながら、慎重に仕事をし、
生きようとされているその真摯な姿に
刹那な辛さも伝わってくる。


それは、わたしの亡き夫とだぶるせいかも知れない。


わたしの夫も病気はもとより、男として家族を養えない
不甲斐なさにずいぶん苦しんだ。
只、わたしの場合「夫の病に同じように溺れなかった」と
いうことが、少し違うかも知れない。


確かに伴侶が苦しむとき、同じようにこちらも辛く、
ふたりで蟻地獄に陥るような感がある。


しかしわたしは、わたしの人生を生きた。
それを夫が望んだ為もあるが、長い闘病を支えるなかで
病気に対する執着心をわずかに逸らす生き方が
夫の精神面での救いになると思ったからである。


あまりそのことに捕らわれ過ぎると、本人の気持ちの負担が大きく
ますます病気を悪化させることを体験から学んでいる。


家族のなかで誰かが病を得ると、辛い。
経済的なことや精神的重圧感でギクシャクしてくる場合もある。
逆に、そのことを通して家族の深い絆が出来
それぞれが成長していくこともある。


どのようにして受け止め、向き合っていくか。
家族に課せられた大きな命題である。


Fさんの伴侶殿は、夫を理解しようとし献身的に尽くしておられる。
そのことが本人には嬉しく、生きる励みになっていて
他人事ながら安堵もしている。


ただ、少し気にかかることもある。
夫婦だから甘えたり甘えられたりは、もちろん普通であり
喜ぶべきことである。


しかし伴侶が、病気の本人に対して、一喜一憂し
助けることが生きがいのようになってくるのは
共依存」の傾向があるように思え、心配でもある。
共依存は、親子や夫婦のあいだに存在し、当人同志も気づかないことが多い。


共依存とは相手との関係性に過剰に依存し、
その人間関係に囚われている状態を指す。


一見、尽くしてくれるパートナーの存在は、ありがたく見えるが、
実はこのことが病に拍車をかけ、治療を困難にしていることもある。
共依存」の関係から抜け出すのは容易ではないが、
お互いが少し鷹揚に、視線をずらす生き方をすると
同じように「溺れなくて」済むのではないだろうか。


そのためには、ふたりが別々にカウンセリングを受ける必要が
あるのではないか、と思ったりしている。
投薬中心ではない、良い臨床医との出会いがあればと思う。
ゆっくり患者のこころに向き合い、じっくり気持ちを聴いてもらえる
医者との出会いもまた命の増役につながる。


どうか、ご自分を大切に、一日を自由なこころで
過ごされることをと、願う。



さざんか(峰の雪)万博公園にて