「どうでもいいこと」の中には・・・

大震災から20日余りが経ち、自粛傾向にあった諸々が
多少、旧に復しているように感じられ、ほっとしている。


かのACジャパンの繰り返しのCMも苦情やひんしゅくを買い
いま風光明媚な美しい自然と花が映し出されている。
里山の風景など、こころがなごむ。


数日前「ACジャパンって?」という表題のブログを書いた。
声を大にして批判したつもりはないのだが、繰り返されるCMのひとつに
腰の曲がったお年寄りに高校生が手を貸す・・・という場面があった。
いまでも、やっているかもしれないが。


それについて、お年よりとされる方の
お顔が若いので出演者のミスマッチでは?
制作のリアリティがない、などとちらりと書いたら
どこかのブログのなかでその事が酷評されているのを、たまたま目にした。


「そんなことどうでもいいでしょう!!」と
すごい剣幕である。
確かにどうでもいいことである。
どうでもいいことなのだが、正直ひどいショックを受けた。


他人に言われるまでもなく、自分の書く文章なんて
「どうでもいいこと」の羅列である。
天下国家を論じるわけでなし、ひとの役に立ちたいなどと
殊勝な気持ちで望んでいるのでもない。
言われるとおり、どうでもいいことばかりなのは重々承知している。


以来その「どうでもいいこと」が頭から離れず、すべてがそのことに
集約されるような気がし、書くことに気持ちが萎えている。


何かを文字にして表現するというのは、難しい。
わたしはどちらかというと、はっきりモノを言い過ぎる傾向があり
人を傷つけていやしないか?と、時どき不安になる。


また他人からも直接、誹謗されたり、攻撃などされていないのに
勝手にこちらが傷つき、落ち込むこともある。
人間って、やっかいだなぁと思うときである。
「たかが駄文」ではあるが、傷つけたり傷ついたりをしないよう
配慮しながら文字を連ねていく難しさを実感している。


しかし一方では・・・
その「どうでもいいこと」のなかに隠された真実が
あるような気がしている。
膨大な情報の洪水の受け手であるわたしたちは
それを取捨選択する目を養わないといけない。


まったく違う観点から言うと、日本ではおカミも警察も、
すべて悪いことはしないという「性善説」のうえに
成り立っていると思える。
しかし現実はむしろその逆のことをたくさん見聞きする。
このため世の中は信用するに値しないことのほうが多いと感じている。


作家の曽野綾子は「性悪説」にのっとり人を信用しないという。
すべてを疑ってかかり、たまに予想からはずれ、ものごとが
いいほうに向かうと感謝の思いが湧くというのである。
世の中は善!だと思っていると裏切られる。
最初から悪だと思っていると、人を恨まないですむというのである。


ここまで厳しく見つめないにしろ
「何か変・・・」というような直観力は、常に持っていたいとも思う。


先のCMひとつとっても、たかがミスキャストかもしれないが、
制作側が安易にものごとを捉えていると
リアリティが薄れ、肝心の訴求力も貧弱になる。
それどころか、そもそもこのACの目的は社会に健全性を求めているのに、
それを訴える広報が、事実を根拠としていない自体が自家撞着となり、
噴飯ものであり、存在する価値がなくなるのではと思う。


若いころは純粋に表面だけをみて捉えてきたことが
少し齢を重ねると「複眼」で見られるようになってきた。
ものごとを斜めに見たり、間違っていないか?と
必ず疑問視するのである。


しかし理屈に合わないクレイマーでないことは自負している。
それだけのプライドは持っているつもりである。


今日もまた「どうでもいいこと」を連ねてしまった。
どうか許していただきたい。



スモモ