「過去と他人は変えられない」

と言う言葉がある。
有名な心理学用語である。


知人女性は、夫の義父母と同居を始めて10年以上が経つ。
途中からのそれは難しいかなぁと懸念していたにも関らず、踏み切っのだ。
迎える側の義父母は長年の勤めを終え、のんびりと退職生活を送っており
健康でまだ若い。
経済的、身体的不安もなく、悠々自適の毎日のようである。
もちろん、いまのところ介護の必要もない。


同居は後の扶養のことなどを考えての英断だったのか。
推し量ることなど余計なお世話というところだろう。


最初は意気揚々と助け合いながら、同じ屋根の下の生活は始まった。
それぞれが「おとなの知恵」で乗り切る賢さを身につけていたせいか
なんの障りもなく順調にいくはずだった。


ところがである。
賢く立ち回っていたはずの嫁・姑に亀裂が入るのに時間はかからなかった。
暮らし始めてまもなくお互いの「言うこと」が出てきた。
特に口をとがらせ不満を募らせるのは50代半ばの嫁のほうである。
夫は早期退職で辞したあと、二つ目の職をみつけ機嫌よく出勤しており
義父は老いてますます趣味のゴルフに熱中し、ほとんど家にいない。


残された嫁と姑は、日中ずっと一緒である。
もちろん2階と階下とに夫婦の部屋は分かれてはいるが
お互いの行動が丸見えで落ち着かない。
それぞれの生活を大切にしようということで食事も毎食、別である。
同居のまえにルールを作り守っている。


大人だけの生活は、ゆったりして、言うこともないように見えるが
実際はそうはいかないらしい。
小さい孫でもいればずいぶんと風穴があき、楽になるだろうけれど
頼みの孫たち家族は遠方にいる。


嫁は少しのパート勤めと陶芸教室に通うなどしていても
時間は有り余るほどあり、どうしても姑の一挙手一投足が
気にかかって仕方ない。


かつては、姑が嫁の行動を監視し、悶着が起こった。
今はどうも若い方に分があるようだ。
そんな意味では姑世代の女性はかつて姑に仕え
今は嫁にうとんじられ、気の毒に思える。
姑の権威など、どこへ行ったのやら・・・。


わたしは双方を知っているせいで、それぞれから
言い分を訊くことになる。
片方を聞けば、なるほどと深く共感し
もう一方に耳を傾けると、こちらもまた正論であり
なるほどと膝を打ってしまうのである。
どちらも似たような勝負で何とも言えない。


それぞれの言い分は正しく、間違ってはいない。
しかし、どちらも「相手が変わってくれたら」と思っており
嫁が、姑が、こうしてくれたらと多くを望む。
相手が変わりさえすれば、モンダイは解決すると思っている。
そしてギクシャクし、溝が深くなる。


いっそのこと、また別居したらどうか?と思うけれど
いかなる事情があるのか、それはできないらしい。


しからば・・・
相手を変えることなど不可能で、自分が変わるほうがまだ楽だと
気がついてもらいたい。
いや自らを変えることだって大変ではあるが。


かくして嫁姑の確執はまだまだ衰えることを知らない。
わたしも若いころ、そのようなことは経験しているからよくわかる。
「嫁・姑」ゆえにこだわり、非常に苦しい。
精神衛生上よろしくない。


かつて嫁姑は柱と障子の桟にたとえられた。
柱が姑で、障子が嫁ということらしく
どんと構えた柱に障子が沿っていかないと
隙間風が埋まらない・・などと周りの年長者に教えれられた。
自分が相手に合わせる・・・ということだろう。


自らが変わらない限り、問題は解決しない。


同じ環境下で、どのようにしたら気分よく暮らせるか、
知恵を絞ったほうが理に叶うと思うのだが・・・。
それが相手を変えることではなく、自らを変える一歩になる。