モノ言わぬは・・・

最近、わたしのブログ更新は、鈍行状態になっている。
ひところに比べて書く意欲が低下しているのを感じる。
「ブログ」という様式に移行してから1年余りになるが
ブログを始めたころは、ずんずん走っていた。
一日に2回ぐらい書きたくなるほど、気分が高揚していた。
「書き溜め」にすることで複数のアップを抑制するほどだったのである。


今はどうだろう?
以前のようなワクワクした気持ちが出てこない。
何を書こう?
躊躇する気持ちが大きい。


ブログというのは、どうも気ぜわしい。
毎日書かなくてはいけいないのか・・という義務感のようなものが
先行してくると、文章を書くことが楽しくない。
「箸が転んでも」の譬えのように、見るもの、聞くものすべてが
新鮮で書くことの題材になっていたような時期は、過ぎたのだろうか。


書くことの怖さを感じたりもするせいか
少し慎重になってきている自分を感じている。
自らのことをさらけ出す分には、誰の気分も害さないし
他を傷つけることも少ない。
しかし今の時代、そのさらけ出す範囲がどこまで出したらいいか
という危惧の念がある。


かくして、書きたいことがいろいろあるような気もするのに
うまく表現できないジレンマを抱えることになる。
そうして気持ちのなかでフラストレーションのようなものが生ずる。
思いを文章にすることに臆病になっているせいもある。
何しろ特に最近は、歯に衣着せずに伝えることが、ますます
はっきりしてきて、相手を傷つけないかと不安になったりするのである。


「はっきりモノを言う」ことでは、またひとつ体験し自省している。
今年、わが住居の管理組合の役員を仰せつかったことは述べた。
いま担っている役員は、10棟の中の2棟が合体した理事会であり
その会合で審議・承認された事項は総合理事会管理組合で
改めて審議され、そのうえ重要案件については
「総会」で決議することになっている。


先日、小さな単位の理事会のなかで「義捐金」についての審議事項があった。
「マンションの積立金の中から義捐金を出せないだろうか?」と
ある役員が、緊急提案をしたのである。
それについては、規約には寄付行為が一切許されないことになっているのに
役員は、やはり拠出を強く主張する。


わたしは、このことについてまったく否定的な意見である。
結論から言うと、義捐金はすでに個人的にいろいろな場所で
拠出している人が多いし、何もマンションの名前で出す必要もない。


今、国中が義捐金や支援について「何かできることはないか?」と
一生懸命であり、その善意はきれいで、
日本人も、まだまだ捨てたものではないなぁと嬉しく感じている。


かの孫正義氏は、100億円の義捐金を寄付すると声明し
一躍高感度No.1となり、英雄視されている。
彼は善人の塊みたいであると皆、思っており
尊敬の念すら抱いているのではないだろうか。
確かに一個人の寄付としては大きな額であり日本人として感謝の思いがある。


しかし、孫氏が100億円の拠出の見返りにその裏でどんな策を練り、
莫大な利益を図るらんとする深謀遠慮を、国民は察しているだろうか。
どのように考えても売名行為の最たるものであり、
彼のあれやこれやの不快な行状を聞くと手放しで拍手をする気にはなれない。


(その一例は、ソフトバンクの不当な課金のためドコモは10年度分150億円を余分に支払うことになっている)
http://www.asahi.com/digital/mobile/TKY201105180473.html

もし彼が全く公表しないで水面下で義捐金を
寄付するならば尊敬に値するだろう。
だがあまりにも見え透いた善にわたしは、首をかしげてしまうのである。


そう言った意味合いからも、先ほどの役員さんが、義捐金を本当に
したいのであれば自らがどこかに寄付することはできるし、
マンション名で寄付を募ることも可能である。
何も積み立て金から拠出することはない、というのがわたしの意見であり
会議のなかで、異論を発した。


怒ったように席を立たれた先輩の役員さんを見て
わたしは、また余計なことを言ってしまったのだろうか、と悩むのである。
まったく「口は災いの元」というのが今のわたしにぴったり当てはまる。
そういうことから、だんだんと口を閉ざし、書くことも
億劫になってしまうような気がする。


見ざる、聞かざる、が、楽でいいかなぁと思えてくる。