『毛沢東の私生活』―李志綏(り・しすい)

『 車内の阿鼻叫喚は凄まじい。怒鳴り合いの会話、携帯電話での大声、
イヤフォンをしないでゲーム。隣でラーメンをズルズルすする人。
まるで闘鶏場にいるようですが、さて、一番の驚きは何か。
中国人は車窓の外を見ないのです。あの感性は、なにに由来するか 』


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上記は、中国の全33省の鉄道に乗り、次に旧満洲の要所を全部乗車し、
最後に高速鉄路(新幹線)の全路線を踏破した宮崎正弘氏(1946年生。
作家・ジャーナリスト)の文章からの抜粋である。


なぜ、かの国の人は外の風景を見ないのだろう。
それに比べて同じ東洋人である日本人は
車窓から田園や海などの景色をよく楽しむ。
なかでも東海道新幹線での富士山を期待する人は多い。
(1979年からたびたび訪中した宿ハチさんによると
あちらの風景は荒涼として色彩感に乏しく
単調で変化がないから、見ないのではないか、という)


子どものころから、本の虫だったわたしは、
書籍から外の風景や世界を眺めるのが、好きだった。
そんなわたしに「男が読むなら良いが、女には合わないかも」と
渡されたのが『毛沢東の私生活』である。
3回目の勧めでようやくページをめくった。


そして、やっと読み終えた・・・。
たった1冊の本を(上・下)読み終えるのに
2か月近くもかかった。


この本は、22年間(1954-1976)付き添った主治医(李志綏・生家は
代々清朝の主治医を勤めた)が「半神半人」と言われた独裁者・毛沢東
知られざる人間像を初めて赤裸々に描いた回想録である。


共産革命後の中国で何千万人と餓死する人間が出ようと、
ぜいたくな暮らしを続けた党幹部たち。
やりたい放題の生活と政治の内奥を詳しく記したものだ。


「究極のひねくれ思考」とでも、言いたくなるほど
読み進むたびに、気分が悪くなる。


なんと、毛沢東は物事をすべて悪くわるく解釈して相手を陥れる。
人間らしい情の感じられない毛沢東や、妻・江青のあまりの
人間的レベルの低さに読むに堪えない気持ちが大きく、
途中で何度も読むのをやめようと思った。


それをしなかったのは、やはり最後を見届けたい。
それだけのためだ。
それにしてもしんどかった・・・。


この手記が米国で発表されたのが1989年で日本での翻訳が
文芸春秋から刊行されたのは1994年。
最初にアメリカで出版されたとき、世界に大きな衝撃を与えたという。
もちろん中国では発禁本である。


その理由のひとつは、
中国内で神格化される続ける毛主席の秘められた
皇帝ぶりを白日のもとにさらしたこと。
それも死人の山を築こうとも動じない権力闘争、
稚拙な経済政策、原爆戦を辞さない対外戦略などを通して
覗かせた独裁者の人間性を語りつくした回想録だったことだ。


毛沢東が評価していた中国歴代帝王をみると、彼の残虐さがわかる。
殷の紂王、秦の始皇帝、唐の則天武后、隋の煬帝と言えば
国史上暴君として有名だ。
毛沢東による王者の評価基準は、殺した人数ではなく
中国の統一と強大化にどれだけ貢献したかにあるらしい。


あの文化大革命で、あらゆるものが「ブルジョア的」「反革命」と
標的に合い、攻撃され破壊されるなか、毛沢東の屋敷の中では
アメリカ映画が上映されたりダンス・パーティも
毎週のように行なわれていた。
中国全土から選ばれた美女達が毛沢東の相手をするために集められるのだ。
気に入った女性を、料理の日替わりメニューのように寝室に連れ込む。
それが毛沢東の日常だった。


これを読むと、いったい「人民のための革命」とは何だったのか?と
政治に疎いわたしも歯ぎしりし、憤懣やるかたない思いになる。


「もし私が殺されてもこの本は生きつづける」の言葉を残し
この著書が発売された3か月後に、李志綏はシカゴの自宅浴室で
遺体となって発見された。
亡命して6年後に米市民権を得た直後だった。
他殺の疑いが濃く、いまだに急死は疑問視されている。


文革中に走資派として糾弾された、訒小平の改革開放政策で
経済は飛躍的に発展したが、今日の中国の指導部にも同様の
闇があるのかと思うと、戸惑いが残る。


日本人は、李白杜甫を代表とする漢詩の世界から
中国人を『文人墨客』と永年想ってきた。
しかし、それは大変な誤解だったのではないかと思う。


車窓から風景も人生も眺めない性癖が、五千年ものあいだ
こうした為政者の愚行を許したのかも知れない。



チトニア  南米原産の植物でメキシコヒマワリの別名がある。