手描き文字の温もりは・・

今では直筆を見るのが珍しいほど
パソコンでのそれは一般的になっている。
仕事の中でも、じかに書類に文字を書く作業が少なくなった。


今は手帳かメモぐらいしか、字を書くことがなくなってきたわたしは
漢字もスッと浮かばなくなり、衰えた脳がますます
低下するのでは、と危機が募るばかりである。


文字というのはその人の個性が現れる。
力強く、大きく書いた男性的な文字は
心もおおらかであるように感じる。
流麗で美しい文字は知性を感じさせ、羨望を覚えるほどだ。


わたしは長いあいだ文字を書くことをなりわいとしていた。
歌舞伎文字でおなじみの勘亭流も、看板制作に欠かせなく
「レタリング」やフリーハンドで筆を使い、描いていた。


小さな告知物などは細い面相筆やペンを使い活字体で描く。
印刷物のように整った文字は冷徹な感じに見えるけれど
手描きの温もりがあった。
四角い升目を埋めるように描く、かっちりした文字は
一見個性がないように見えるが、見慣れて来ると
一目瞭然、誰の字で作品なのかすぐわかる。
仕事ではウソがつけない。
裸をみられるように気分のムラまでわかり、
自分自身がそのまま投影される怖さがあった。


職業で文字を描いていても、プライベートな文字は
汚く今でも恥ずかしい限りだ。
周りはみなそうだったから職業病とでも言えるかも知れない。


活字のような文字ばかり書いていると
それが癖になり流れるような字が書けなくなる。
悲しい習性のようなものだ。


それでも手描きの文字には愛着がある。
今も、ときどき手紙やハガキを下手な字で友人にしたためる。
返信された手紙にもきれいな切手が張ってあり
自筆で書かれたそれを見ると嬉しさでいっぱいになる。


亡き夫は料理が好きで闘病のあいだに
たくさんのレシピを作っていた。
大学ノート5冊ほどのそれは、びっしり書き込まれ
当時の夫の心情や、からだの具合が推し量れるほどである。


レシピには写真も切り貼りしてあり、いまのように
簡単に携帯で映しプリントできる時代ではなかったのに
よくこれだけ、記事に合わせて貼ることができたものと几帳面さを思う。
夫の精いっぱいの矜持だったのかも知れない。

入院の退屈しのぎに彼にノートパソコンを渡すと
今度はワードでそれを作成するようになった。
カーテンで仕切られた暗いベッドの上で
キーボードを打ったのだろう。


退院したあと、せっせとプリントしており
100枚ほどのそれはファイルとして残された。
新聞や雑誌などの料理記事を家族分にアレンジしたそれは
重宝し娘が結婚するとき、持たせてやった。


手描きのレシピがまだ数冊わが家に残っており
ノートを繰ると夫の声が聞こえて来そうな気がする。


文明は、人間の生活を格段に効率よく進化させ
便利さを享受しているように見える。
しかし手紙一枚、本人の温もりのあるそれが
どれだけ残せるだろうかと、寂しい気もする。


いや、それ以上にいまの子どもたちは頓着なく、手紙に
「ぬくもり」など必要としないかも知れない。


故郷の母から娘のわたし宛てに来た手紙もときおり、出してみる。
紛失したものもあり残念だが、達筆ではないが特徴のある母の字は懐かしい。
母の思いや息遣いが聞こえてきそうで、額にでも入れたい気分だ。


携帯電話もメールも普及していなかった時代。
手紙は心を伝える大切な手段だった。
手描きの文字にひとしおの愛着を覚える。
夫の手描きのレシピも少しぐらい手元に置いておこう。


明日はまた、ひと足早く彼岸の墓参に行く。