「剛毅木訥、仁に近し」を演じているのか

数年前から日曜日のN紙には、瀬戸内寂聴氏の「奇縁まんだら」
が連載されている。
毎日曜日に心待ちしている読みもので
一気に読ませる文章も魅力的である。


今年90歳の寂聴氏は、戦後の文壇で活躍した多くの作家との
交流があり、いまは生き字引的な感がある。
紙上には物故作家がたくさん登場し、秘話が紹介されている。


戦後まずは大岡昇平野間宏や田村泰淳などが抑圧から解放された
社会で、自由を旗頭に執筆を始めた。
以降数多くの作家が今日まで新たなジャンルの作品を世に出している。


また海外の作品も多く紹介され、とりわけ海外のミステリーは
多くの男性諸氏を虜にしたと思える。
こうして日本の経済成長に付随して、文学界も隆盛をきわめたが、
それも今では過去のものになろうとしている。


その最大の理由は、若い世代が読書をしなくなったことだ。
かつての若者の楽しみは、読書か野球が多かったように思うが
いまでは海外旅行、各種スポーツ、ITゲームなど様々な
楽しみが身近にある。


それに拍車をかけているのがIT革新である。
先進諸国はインターネット社会となり
電子書籍が印刷書籍を追いたてている。
こうした現象は単純な郵便事業の存在を危うくし、
米国・郵政公社は近々会社更生法を申請しないといけないとも聞く。
さらに新聞購読も著しく減少し、大手各社も販売に躍起になっている。


わたしたちの日常もパソコンで支えられており、今では
文章を格闘して書くことも少なくなり、漢字も忘れていく。
これは単なる老化現象ではなく、人間が怠慢化しているのではないのか。


さらに昨年から小学校では英語が必修になったと聞いている。
日本語の教育を十分に受けないうちから外国語が脳に入り込むと
基準言語である日本語はいったいどうなってしまうのか。
人間形成の観点から、大いに将来を憂える。


こうして日本語や文学が退化してゆく折に
この30日間ほどの国会をみると「させていただきます」
「させてイタダキマス」との奇妙な謙譲語が聞えてくる。
この表現は一見、謙虚なようでなぜか奇異に感じる。


いまの世、この「させていただきます」の大廉売か。
コンビニや企業の告知案内文にもこのような表現が最近多い。


いつの間にか「両手で握手する」ことや、
「両手で名刺を差し出す」妙な仕草や「不要な謙譲語」が
流行っていると、宿ハチさんは嘆く。
そして「させていただきます」は、一体何なのか?とわたしに問う。


一国の宰相が遠慮するのか、自信がないのか、
徒にへりくだるのか、妙な表現で語ることはやめて欲しい。


古人が巧いことを語っているので引用しよう。


「巧言令色、鮮(少なし)仁」という。
さわやか弁舌、ひとをそらさぬ応侍、そんな手合いに限って
仁は遠いと論語の学而編は諌める。


この孔子の言を裏返したものとして「剛毅朴訥、仁に近し」が子路偏にある。
剛直で無骨な人間は仁に近いという意味であるが、
「文質彬彬(ピンピン)として、しかる後に君子」(雍也編)と
あるように、孔子は形態と実質とが過不足なく均衡し合っているのが
君子であり、そのためには「博(ひろ)く、文を学び
これを約するに礼をもってする」(同)が必要であると説く。


つまり、教養をひろめると同時にこれを礼によって
集約する実践態度こそ君子に相応しいものであると。
(経営思潮研究会・中国の思想から引用)


そもそも野田首相の演説や発言は、朝野を心腹させた
尾崎行雄の演説とはほど遠く、また問答は低俗的なものである
いずれにしろ野田首相の場合は、巧言でもなく、朴訥でもなく
単に国民を騙す術なのかもしれないのではと、今後を注視したい。



なお「伊藤博文」や明治時代の最大出版社「博文館」
(今日では日記の出版で有名)の“博文”の命名の出典は
上記の「博く文を学び」であるという。