自分のために

「手帳まっ黒症候群」と呼びたいほど、スケジュールが
詰まっていないと、不安なひとがいる。
知人女性もそのひとりである。


Y子は70歳を少し過ぎている。
今年の春、脳梗塞に見舞われ、半年を経ずして再発した。
元気いっぱいで若いころから火の玉のように熱いと
言われた彼女は、40代に子宮ガンを患い、それでも大過なく
これまでを生きてきた、という自負があった。
それだけに今回の脳梗塞の発症は特にショックだったようだ。


食事に気をつけ、ゴルフや社交ダンス、登山なども目いっぱい
楽しむなど、からだを動かすことも心がけてきた。
心身ともにストレスを感じない生活を意識的にしてきたと思っている。
なのに、どうしてわたしがこんな病気になるのか・と、納得できない。


誰でも病気をしたくない。
病を発症すると、心身ともに落ち込むし、原因を自らに求める。
医学的なことは、一般人にはわからないことが多い。
けれど食生活や生活習慣については、ある程度自分のことだから把握はできる。


Y子の場合、心当たりがあるとすれば、「忙し過ぎる」ことだ。
まわりからは異口同音にそのように、指摘される。
40年以上、あるボランテイアを続けており、活動と研修などで
勤務人よりはるかに精神的、肉体的拘束が多い。
達成感もあるが、疲労度も高い。
手弁当であれだけ打ち込めることも尊敬に値する。


本人にはそのことが生きがいのように感じられるから
ストレスなどないと思っていた。
毎日人と会い、多少なりとも他のひとの人生の助けになればと心を砕いてきた。
70歳を半ばにした今でもそのことを主に、予定がびっしりである。
手帳に余白があると不安になるというのだ。


ある日、多忙な彼女が「一緒に食事でも」と誘ってくれ
こちらの近況を訊いてくれた。


わたしは、退職を機にいっさいの活動から身を引きつつある。
長年大切に育んできたことも含まれているが、自分のなかの優先順位を決め
捨てることにしたのだ。
なぜなら、人生の持ち時間が決められていることへの認識が深くなったからである。
「あれもこれも、と欲張らない」ということを主眼において
やりたいこと、やりたくないことを整理してきた。
生き方の選択をしている。


結果、人間関係は、以前よりシンプルになってきた。
寂しさもないといえばウソになるが、慣れてきた。
そして温めている「やりたいこと」を静かに醸成しているところである。


これまで多少の関わりのなかで他のために時間や身を費やすこともあった。
そのことは、自らの成長の糧にもなり、尊い経験だと思っていて
Y子と同じように今も関わっている方をみると、りっぱだなぁと感じている。


Y子はこちらの話を聞きながら、深くため息をつくと
「わたしは、ひとのことが気になって仕方がない」
「気にならないで、自分のことだけを考えられるひとが羨ましい」ともいう。


実際、長年培ってきたことから離れるのは勇気がいる。
自分がなくなるような心細さもある。
充実感も達成感も味わえるから、捨てられない。


しかし・・・
生身の人間の許容度というのも侮れない。
「たしかに最近、重い話はずっと頭に残る・・・しんどいかなぁ」と
感じ出したようである。


長いようで短い自分のこれから・・・
「選択」次第で寿命にも関わるような気がすると思うのは、わたしだけだろうか。
少なくともわたしは、手帳が余白だらけでも平気である。
予定を詰め込みたくない。
せっかくできた時間を、意のままに使いたい意識が強い。


万博公園の秋バラ