「和顔愛語」(わげんあいご)

この言葉が好きだ。
座右の銘にしたい好きな言葉は多いが、これは日常心がけていることであり
一番、ぴったりと胸にせまる。
亡き夫の母が教えてくれたもので
仏教の法華経のなかに出てくる「和顔施」で
寄付などと同じように布施のひとつであるらしい。


ニコニコと柔和な顔で、そして優しい言葉を発することが
相手のこころをほぐし、善行になるというのだ。
大きな大義名分を掲げ、ボランティアをと叫ばなくとも
日常のなかに小さな善意の芽は隠れている。


ひとが傷ついたり悩んだりしたときに
多くの言葉は要らないが、あったかいまなざしと
真に相手を受容する気持ちがあると、そのこころは届く。


ところが案外これが簡単そうで、できない。
いつのまにか眉間にシワを寄せて口をへの字に曲げて
難しい顔をしていることが少なくない。
発する言葉は、蜂の一刺しにも似て鋭いことがある。
たまに反省する。




実家に戻ったときに、この言葉を引用した
掛け軸を久しぶりに、じっくりと眺めた。
時々、中国の故事や漢詩などから書にしたためており
30年以上も前に書いたわたしの初期の作品である。
未熟な四文字が踊っている。


今は、茶けて染みがありお世辞にもきれいとは思えない。
誰も目をかける者などいない。
実家にひっそりとかかっていた、この掛け軸を
亡き父は訪れるひとに自慢していたらしい。
父親の、厳しいそして娘に甘い親バカぶりを思った。


いまは、さっぱりと墨を磨ることをしなくなった
娘の気まぐれを苦笑しているかも知れない。




そうだ、今年は「和顔愛語」でいこう。
何もできなくとも、こころの慈悲はかけられる。
柔和でほっとする言葉かけを・・・
前回、人間の相や顔について記したばかりである。