母と娘の間には・・・

胸のつかえがおりたような気がしている。
このひと月ほど、娘の産後の手伝いに娘宅へ通っていた。
新しい命の誕生は、家族に喜びと嬉しさと幸福を一度にもたらし
感慨無量である。



ボケ 万博公園にて


第三子は、蒼輔(そうすけ)と命名され、生まれて1か月を過ぎた。
ほっぺたが、ふっくらとして、澄んだ瞳をぱっちり開けると凛々しく
「男前になるなぁ」毎回、同じことを言っている自分に苦笑する。


余談だが凛々しく男前に?なるはずの潤平はすぐに
アンパンマンのような愛嬌のある顔に変った。
いま「フクちゃん」とかいう子どもタレントに
そっくりだと言われている・・・


蒼輔の眼は、まだはっきりとは見えていないようである。
わんぱく盛りの,お兄ちゃんたちの歓声を
尻目に知らん顔でよく眠る。
時どき手を握られたり、ほっぺにチュウをされたり、
寝ている間も彼は忙しい。


過日、1か月検診のため初めてのママとの外出である。
親も子も順調らしく、ほっとした。


「お母さん、疲れたん違う?」
帰宅した娘が、ねぎらうように言う。
「ええ、ほんまに疲れたわぁ・・」
正直にわたしも答えた。
この1か月ほど心底、疲れたのだ。


いずれゆっくり、娘とも話すことがあるだろうが
彼女も敏感に感じ取ったに違いない。
わたしの「疲れ」は肉体的なことより精神的なことのほうが大きい。
なぜ、精神的なのか・・・
いわゆる気疲れというものである。
娘の産後に付き合うのはこれで3回めであり2回目までは、在職中である。
なのに、なぜ今回は、これほど疲労感があったのか。


ひと言で言うと、わたしは娘の産後を彼女の家で見ることにより
様々な課題を突き付けられた・・・と感じている。
正直、娘は意識していないだろけれど、何気ない言葉に傷ついたり
批判をされているようにも感じてしんどくなったのだ。


産褥後は当たり前なのかも知れない。
いいほうに考えてみる。
親子であっても自分とは違う人間なのだ。
ましてや結婚してひとつの生活スタイルを確立させている。


そして親が思うほど子どものほうは、さほどの感謝もなく
必要としていないのではないか?などと思ったりもした。


孫たちとの接触は面白く、自分の子育てとは違う感がある。
一挙手一投足に至るまで、自分の子どもたちに
してやれなかったことなども、胸の痛みとしてある。
遠い昔、同じように母に甘え、産後の面倒をみてもらう
わたし自身、本当に感謝できていたかどうか・・・
わが身に置き換えてみたりするのである。


うまく表現できないけれど、毎日娘宅へ通い、じかに
彼女たちと時間を共にするなか、苦悩する自分がいたのだ。
もやもやとした得体の知れない葛藤・・・。
初めて経験する思いである。


こんな気持ちを似たような経験を持つ知人に話すと
「わかるわぁ〜〜〜」明快な言葉が返ってきた。
「わたしもおんなじ気持ちになってしんどかったわ〜」という。
「娘ってけっこう母親を批判するのね」同感だ。


娘の「疲れたのでは?」のひと言で救われ、ふっきれた感がある。
単純で当たり前のことだが母と娘の間にも一定の距離が
必要だということをつくづく思った。



ラッパ水仙 万博公園にて