満開の桜の木の下で

という小説があったような気がする。
確か作者は坂口安吾だったか・・・
旅人を殺しその連れの女を次々と自分のモノにしていくという
何やらおどろおどろした内容だった。
渡辺淳一も「桜」にまつわる物語を書いている。
母親と娘が同じ人を好きになるという
彼一流の不倫もので、穏やかではない。


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桜をうまく撮れなくて残念



昨日、わがブログへのコメントにシニア・ナビのジオさんが
「桜には気風のいい洒落た女を感じ、
 梅には家庭的なかわいい女を感じ、
 椿には情に耐える古風な女を感じ・・」と粋なことを書いてくれた。
かの理学博士も、なかなかの詩人のようである。


桜には情緒的で色っぽい話が多い。
わたしは「満開の桜の下で」ご飯を食べている。
それだけのことだが、桜は豪勢である(^。^)y-.。o○


わが家のダイニングテーブルにたっぷり桜を挿しているのだ。
こんなにたくさんの桜の枝を無造作に梅酒のビンなんぞに
放りこむ贅沢も珍しい。


信楽焼のカメか、大ぶりのおしゃれな花瓶にセンスよく
生けると、桜も喜ぶというものだが、残念ながら無粋である。
時間が経つにつれ3分ほどのつぼみが、8分ほどになり
少しずつ開いていくさまを凝らして見ている。
枝全体が、ふんわり桃色に染まるのもそう遠くない。


いつもの散歩コースは川沿いであり、桜並木が多い。
ちらほらと咲き始めた淡い桜を見ながら歩くことの心地よさ。
ほんのりピンクに染まった花びらや、白樺のような白い幹を
じかに触ってみる。
ゴツゴツ、ざらざらとした感触がある。
散歩は、十分に免疫力を高めるほどの至福を味わえる。


「ひと枝ぐらい欲しいなぁ」などと思っていると
信じられないことに、川の土手に焚火の山のように桜が積み上げられている!
一枝どころではない。



おとといの突風で、木がなぎ倒されたものらしく
のこぎりで切断された桜の枝は、花とともに窮屈そうに
幹の下に埋もれている。
でもまだ花は生きている。


焚き木のようになった桜の枝を頂戴することにした。
なんという幸運!!
今度は失敬ではないから、堂々と歩ける。
お天道様は、日頃品行方正なわたしめに
ご褒美を与えてくださったらしい。


かくして、わが家にはどっさり桜があり
部屋の中でお花見をするという贅沢を味わっているというわけだ。
満開の桜の下でお茶を飲み、ご飯を食べる。
妖艶さとはまったく無縁の話である・・・。



川沿いのレンギョウも絵になるほどきれいです。