今を生きる

「今度どんな状態で会えるか、わからないから、会ったときは
たくさんしゃべっておきたいのよ」友人は言った。
昼食をともにした時のことである。



彼女は70代半ばの元気印100%の行動派人間だ。
若いころから手帳には予定がびっしり書き込まれ
多忙で、エネルギーの塊みたいな人だった。


「いの○の電話」のボランティア歴も長い。
かれこれ30年以上になり、古参の部類に入る。
重鎮だから、責任と、人を育てる責務もあり
勤め人よりハードだと感じることが少なくない。


関連する職種に60歳から就き2年ほど前に退職している。
それと前後して「多発性脳こうそく」を発症した。
あの元気な彼女が!と信じられない思いで、そのことを
知ったのは、ずいぶんあとだった。


軽い言語障害が残ったがリハビリと投薬で傍目には、さほどわからない。
そして2度目の梗塞である。
「検査の数値も問題なく、安心しきっていたときに再発したのよ」
「だから、もういつ何が起こるかわからない」
「いずれ認知症にもなる運命なのよ・・・」
淡々と話し、彼女はそのことにも熟知している。


認知症専門のグループホームで10年ほど働いており
そのすさまじさを目の当たりにしているのだ。
患者には元裁判官、教師、看護師・・・
社会でフルに活躍したひとが多く含まれる。
「だれでもなり得るのよ」彼女は言った。
食生活や生活習慣の見直しなんて言うけれど、そんな簡単なものじゃない。
原因がわかれば、ノーベル賞ものよ、とも。


わたしは、ある程度意識して生活習慣を律すれば
発症のリスクはあっても遅らせたり回避できるのではないかと、
思ったりしている、甘いのだろうか。


いまもボランティアと月数回のアルバイトをしている。
ストレスになるのを心配して家族や周囲は、引退を勧める。
「おとなしく言うことを聞き、家で趣味にでも没頭できたらいいのだけれど、
どうしてもできない」
気になって仕方がないというのだ。


自分が安泰な立場にあってもドロドロとした環境に
身を置きたいともいう。
まるで、恵まれたお釈迦様が出家したときのようである。
自ら苦労を背負いこむ形である。


「死」からものごとを見るようになった、その分いろんなことが
透けて見えるようになったわ」と、彼女。


ボランティアは自分自身のためにやる。
そのことを通して自らが諸々に気付き、成長のよすがとする。
決して他人からの称賛や評価など求めてもいないし、要らない。
「させていただき、ありがとう」という気持が大きいようである。


生き方の選択である。
人にはそれぞれ担う「役目」があるのかも知れない。
いつか起こるかわからない命の危うさより、やりたいことを
やり遂げようとしている決意のほどが見られ、その迫力に圧倒された。


わたしには真似できないけれど
彼女は悔いのない生き方をしているように感じる。



たわわに実ったサクランボ。
ちょっと酸っぱいです。