生きること、死すること

 

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『歳をとることは罪なのか――』
今、高齢者が自らの意志で「死に場所」すら、決められない現実が広がっている。
ひとり暮らしで体調を壊し、自宅にいられなくなり、病院や介護施設も満床で入れない・・・「死に場所」なき高齢者は、短期入所できるタイプの一時的に

高齢者を預かってくれる施設を数か月おきに漂流し続けなければならない。

 

誰しもが他人事ではない老後の現実を描いたNHKの

「漂流老人」を見て、暗澹たる気持ちになった。

 

超高齢社会を迎え、ひとり暮らしの高齢者(単身世帯)は、今年500万人を突破。

「住まい」を追われ、“死に場所”を求めて漂流する高齢者があふれ出す異常事態が、すでに起き始めているという。

 

番組のビデオに登場した80代半ばの元自営業の男性は、

80歳まで現役で仕事をし、妻もそのころまでは健在だった。

しかし伴侶を亡くし一人暮らしになると、精神の落ち込みが加速されたのか、

一気に老いが襲い、自立した生活を営むことができなくなった。

老人ホームなどの世話になることになるのだが病院と同じく長くはおれない。

 

転々と、施設の移動を余儀なくされる。

妻との思い出の沁み込んだ住宅も出ることになり

荷物も業者の手で処分される光景もテレビで映し出された。

使っていた杖が踏みつけにされ、一切合財の生活備品が

手荒く業者の手で始末される。

見ていて、なんとも切ない光景である。

本人は車椅子に乗ったまま、取り壊される中の様子までは知らない。

 

二度とわが家と呼べるところには戻れないのである。

妻の遺骨を胸に抱き、涙を必死に抑えている。

認知症でもなく、歩けないこと以外は正常なその老人の

胸中を思うと他人事ではなく、痛ましくて直視できなかった。

 

一生懸命、仕事をして子どもを育て(この方の場合はいない)

その結果自分の終焉がこのような形で閉じられることを想像しただろうか。

 

住み慣れた自分の家で子どもや孫に看取られ旅立つことは

今や、夢に近いのだろうか。

 

誰もが老病死は避けては通れない。

老いて、やがては死を迎える。

 

わたしの母は、84歳で世を去った。

逝って9年になる。

父が他界したあとも、長男夫婦とは別棟に、ひとりで暮らしていた。

息子夫婦にさほど依存することもなく日常の賄いもひとりで

やっており、高齢ではあっても頭も行動もシャキッとしていた。

 

そんな母が脳こうそくを患い、それと前後してあるガンがみつかり

後遺症のリハビリと治療で病院と施設と自宅を行ったり来たりの2年間だった。

最期は自宅に連れて帰り、姉たちと一緒に看た。

穏やかで痛みもなく、始終笑みを浮かべニコニコと幼児のように甘えていた。

まるで育児をしているかのような、ほんわとした時間だった。

わたしは、そのころ母のこともあり仕事を辞めており、

心おきなく看ることができたことは

いまでも良かったかなぁと思っている。

 

住み慣れた我が家で、新緑の季節に庭の樹木を愛で、

親戚や孫やひ孫に囲まれて過ごした最期の半月ほどは、

母の安心の時だったか・・・。

 

安心して旅立ったように見え、わたしたち子どもも

それなりに看取ることができて、安堵したけれど

母が逝って10年近く経ったいま、やはり悔いは様々残る。

 

生老病死は避けられない。

いかにして死すか・・・。

母のときのような最期が送れる保証はないのだ。

今から心の準備が必要だ。