今週のお題「私のお母さん」

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洗う手の表情

 

おかあさんは

夜、仕事が終わると 手をこする

すると カサカサと音がする

おかあさんは、

こんな男みたいな手になっちゃった

といった

 

 「おかあさんの手」という題の詩で

小学生の文集に出ていた詩を

作家の佐藤愛子が書き留めてエッセイのなかに挿入している。

 

 おかあさんの手―――

この手の詩は、しかし何十年も何百年もつづいてきた

日本のおかあさんの手である。

指が太くなり手のひらが厚くなり、あたたかくて

カサカサした手。

 

朝は家の中の誰よりも早くから、夜は誰よりも遅くまで

水と触れあって、とうとう、こするとカサカサと

音を立てるようになった手。

 

 氏は、女の手が物を洗っている手が好きだ。

女の手が表情を持つのは、拭く時よりも洗う時だからだ。

かいがいしい心、いそいそした心、思いあぐねている心

悲しんでいる心、物を洗う手は知らず知らずののうちに

 

そうした心を相手に、皿や野菜や洗濯ものに伝えている。

そうして洗うことによって手は慰められそれを心に伝える。

と言っている。

 

 便利な世になり女性が洗うことのすべてから

解放されたとき、女性はそれによって得た時間を

本を読んだり、教養講座に通うなどして自らにますます

磨きをかけるのだろう。

 

洗うことのなくなった日常のなかで女たちは

素朴な女の喜びを失ってしまう。

そのとき、日本のおかあさんの手は、カサカサと

音を立てなくなるだろう、それと同時に代々子どもの心に

もっとも素朴な形で生きてきたおかあさんのイメージも

消滅してしまうだろう・・・と結んでいる。

 

 小学生の詩にある、おかあさんの手の表情は

まったくわが母と同じだ。

また氏が結ぶ母の手のイメージに関しても同じことを

わたしも思う。

 

 大正生まれの実母も働き者でいつ寝て、いつ起きたのか

わからないほどまめに動いていた。

味噌を作る、畑を耕す、料理や縫物にいそしむ母の手を思う。

 

 ゴツゴツと節くれだって、鳥の足みたいに

脈が浮いて、決して美しい手とは言えない母の手。

今のようにハンドクリームで手を守ることもなく

紫外線にさらされ、しみだらけの男みたいな手。

母の手を見るたびに、この手でわたしたち兄弟を

食べさせ、育ててくれたのだなぁと

しみじみ眺め、触ったものである。

 

 母は色白で美人の部類だったと思う。

卵型の輪郭に、昔にしては掘りの深い顔。

そして心持ち鼻筋が通っており、ほほ笑んでいるような

口元をしていた。

 

子どもの頃そんな母が自慢だった。

残念なことに、わが姉妹は誰一人として

母の容貌を受け継いでいない。

 

 父は、母を一目で惚れこんで嫁にしたという割には

大切にしていなかった。

その惚れた妻に対して、父は女性関係で

何度も母を裏切り、泣かせてきたようなのだ。

 

 そのたびに実家に身を寄せる母を

父は、田畑を切り売りしては電車賃を作り

頭を下げて迎えに行ったと訊くが

父が老いるまで母の心労は絶えなかった。

昔のひとは忍耐強い。

 

 その母も10年程前に病を得て、父の死から7年後に他界した。

あまり幸せとは言えない人生だったのではないか。

 

 亡き母を思うとき、洗いものを終えたとき

ハンドクリームで手入れをしながら、

わたしは血管の浮き出た母の「手」を思い出す。