危機意識と想像力

 

曽野綾子のエッセイ「危険と安逸の魅力」のなかの

「柵の内側、生死すら場当たり次第の判断」から・・・

 

 

 

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 作品展の出品作「ドン・キホーテ

 

 

「 パキスタンのラホールで残酷な事件が起きた。

英字新聞によると1歳半の子どもが両親に連れられ動物園に行った。

目撃者の話では、両親は手前の網のフェンスを乗り越え

黒いヒマラヤ熊のすぐそばまで行き、子どもと握手させようとした。

すると熊は突然、母親に抱かれていた子どもを襲った。

 

 

熊は子どもの足を自分の前足と顎で掴み、檻の中に引きずり込んだ。

もちろん両親と周囲にいた人々は、叫びながら子どもを引き離そうとした。

しかし熊はいきり立ち、両親の目の前で子どもを真っ二つに裂いた。

どんな思いだったろう。

 

 

目撃者の群衆は怒って、熊を殺そうとした。

しかし警察は、彼らにそのような暴挙を許さなかった。

むしろ、彼らは、子どもの死はそうした危険に近づけた両親の責任だとした。

園長は、熊は人食いではないので子どもを食べたりはしなかった。

そして動物園は熊を殺すことをしないだろうと付け加えた。

 

柵は2・1メートルの高さの網のフェンスが張ってあり

人々はその外から熊を見ることになっているという。

この若い父母はよほど運動神経のある人たちだったのだろう。

死に物狂いにでもならなければ、とても乗り越えられないと思う。

恐らく、父が若い母を助けて、おもしろ半分に網の堀を乗り越えて

熊の檻に近付けたのだろう・・・」

 

 

衝撃的なこの部分に小さい孫がいるわたしは、

わが身に置き換え、震撼し、言葉もない。

 

 

著者は、このことに対して複雑な矛盾をみせつけている、としている。

動物と仲よしになるのが流行で、テレビではヤラセが問題になり

人間と動物との交流をテーマにしたものは、その多くを、偶然、

やらせ、トリックなどで巧みにつなぎ、現実と架空がないまぜに

なり、熊と握手できるのは、ディズニーランドの熊だけだと

言うことを人々は忘れている。

 

 

柵の内側には入らない、という常識と規則は破った方が悪い、としても

当然だが、一方では動物愛護を言いながら、一方で規則を破った人間が

噛み殺された場合には、「熊を殺せ」という。

矛盾の多いその場その場の判断を何とか整理できないかと結んでいる。

 

 

確かにこの痛ましい事故は、動物愛護の観点からも矛盾が多く

また、現代に通じる危険な示唆を与えてもいる。

 

 

子どもを亡くした両親に鞭打つようで言いたくないが、

子ども可愛さのあまりの行動であったとしても

危機意識と想像力の欠如であるような気もする。

 

 

柵を乗り越えてはならない・・という規則を破ったばかりに

大切なわが子が・・・

気も狂わんばかりの一生の責めを負うだろう。

他人事と思えず無念さが募る。

 

 

親の不注意からの事故も胸をえぐられが、昨今の児童が

登下校の途中で車に轢かれて死亡する事故も跡を絶たない。

大事に育んできたわが子が、一瞬にして手の届かない世界に逝く。

しかもこちらに何ら落ち度はないのである。

親や肉親の・・・言葉に言い表せないほどの怒りと悔しさと哀しみ。

いったいどうやって償うというのだろう。

 

スマホを繰りながら自転車に乗り、車に乗り、事故を起こす昨今の

安易な行動に、どのように歯止めをかけたらいいのだろう。

熊の事故ほどではないにしろ、今のこの行動が後々どのような

事態を引き起こすか、想像力が働かないのに驚く。

 

 

いつも、いつも、幼い子どもが巻き込まれる事件や事故を

見聞きするたびに家族の心中を思う。

天から車が降ってきたり、横から暴走して来るなど

今日一日、無事に生きられる保証などないのである。

 

 

大人も子供も自らを大切にし、他人の命も同じように尊いと感じる

生き方をしてほしい。

どうか、想像力を働かせ、行動してほしい、強く希求する。