佐藤愛子のエッセイ「女の背ぼね」のなかで、氏はデパートの
地下食品売り場での、店員とお客さんとの会話を聞いて、フンと鼻をならす。
「ここのシャーベットは大きさといい、酸味といい、和食のデザートに
とても合うのよね。フランス料理の時は×屋のアイスクリームが合うんだけれど・・
今日はお客さまなんだけど、和食のおもてなしをするのよ」
和食にはシャーベットの味が合い、フランス料理にはアイスクリームが
合うといったからといって、なにも鼻をならすことはないじゃないかと
言われるだろうが、私は要するにそういう人間なのである。
料理は文化だとか、芸術よ、なんていうのも嫌いだ。
料理について語る資格はない。
けれど、どんな味付けのものでも感謝してパクパク食べる方ではない。
だいたい人の作ったものは、気に入らない。
他人は、何と言おうと自分で作ったものが一番うまいと思っている。
どこそこの何がうまいとか、こういう料理がおいしいなどと推奨している
文章を読むと憮然とした心境になるのだそうだ。
そうしたなか田辺聖子さんの「無芸大食」という短編小説を
引用して唸っており、食指をそそられている。
子どもを欲しがっている男が、子どもが生まれないので妻と離婚し
二度目の妻を娶った。
ところがその妻も子どもができない。
そればかりか、食べてばかりいる。
しかも彼女は下品な(安もの)食べ物が好きなのである。
例えば彼女は市場で売っているコロッケが好きである。
「安アブラでギトギトしたコロモの、ぶ厚いのをソースにつけ、
唇を光らせてご飯のおかずにする。
コロモにソースが染みてやわらかくほとび、グジャグジャになって
アブラの甘味だけが舌にくる 」という市場のてんぷら。
「まことに中のじゃが芋の味付けがおいしくて、ヘットで揚げてある
外のコロモも申し分ない。肉らしいものは何も舌に当たらず、
にわかに『コリッ』コリッ』と何か一粒、スジ肉の端キレのような
ものが歯に当たり、申しわけのヒキ肉かもしれないが、オーブントースターで熱くして食べると、いい匂いが立っておいしい」というコロッケ。
「あんたソースか」
「あたし、醤油でいただきます」
田辺聖子の引用
と、嫁と姑が仲よくその安モノのコロッケを食べるくだりになると
安モノのてんぷらがコロッケが新しい生命を吹き込まれて
生き生きと我々の前に現れ、つい
「うまそうだなァ・・・」という気持ちになってくる、のだそうだ。
そうして・・・・
『彼女は)下品な食物を下品に食べるのが好きである』という
一行の文章に出会うと、本当に「下品な食べ物を下品に食べる」
ことこそ、食通の極致という気がしてコロッケを買いに市場に走り
唇をアブラを光らせて食べたくなるのである------
と言っている。
なるほど・・・・。
田辺聖子のコロッケの描写に、やはり唸る。
ひと言も、コロッケについて誉めていないし、美化もしていない。
それどころか、あるか無きかの肉を引き合いにして、ほんとに
おいしいの?、からだに良くなさそう・・・と思ってしまうぐらいだ。
それでも食べたい気にさせるのは、最後の姑と嫁との会話かも知れない。
文章で想像させている。
最初の妻が、子なしは離縁される時代のなかで、2番目の嫁も子ができない。
下品で食べてばかりの嫁と、食べ物で気が合いそうな二人の関係が
コロッケを介して温かく感じられ、コロッケに親しみが持てる。
名文を食べる・・・って