なにが贅沢かというと、これほどの贅沢もないような気がする。
もっとも子どものころは、まったくそんなことに頓着していなかった。
大人になり結婚し、子育てを終え、人生の終盤に差し掛かるころ
いま、しみじみと思うこと・・・
しかし、いまのわたしには大したことのようにも思える。
初夏になると、子どもも茶摘みに刈りだされたものである。
毛虫にかぶれ、陽に焼けるなど、決して嬉しくもない作業を
今ごろになって懐かしく思うのは年を経たせいか。
庭先に敷いたゴザの上で乾燥させる。
そしていつのころからか、近所の製茶所に持って行くようになった。
たいがいの家には製茶機などなかったので、所有している処に
依頼していたのだろう。
子ども心にも、おいしいもんだなぁと感じたものである。
お茶の栽培は向いていたのかどうか・・・
取り立てて地場産業が発展していなかったこの地も
今や「100g1500円」の茶は当り前の、高価な
ブランドにまで成長している。
似たような時期に、やはり児童が茶摘みに刈りだされた。
今なら子どもに労働させるなんて!と父兄のやり玉に
挙げられそうなことが、当り前にできていた時代である。
亜麻色のかぐわしい色と香りを伴って。
昨今のセイロン産の紅茶と違い、素朴で甘い味がした。
出来立てのお茶を毎年送ってくれていたのに
感謝の念も、あるかなきかの親不幸娘である。
だが、慈しむ父母も、もういない。
高級なブランドと化したお茶を思うとき
やはり母の節くれだった手を懐かしむ。
ひょうたん顔をした男が「どげんかせんといかん!」と
掻きまわした地である。
今週のお題「僕の住む街・私の地元」