『宦官(かんがん)』
浅田次郎 原作『蒼穹の昴』がNHKで放映されている。
わたしは、原作も読んでいないし、ドラマも最初の一回を観ただけで、
あとは観ていない。
けれど、最初の宦官(かんがん)の描写が恐ろしく、仰天した。
宦官(かんがん)について、まったく知らなかった。
いったいそれは何を意味し、どういうことなのか、
との思いが強くなり
『宦官(かんがん) 』
−側近政治の構造−三田村泰助著を読んでみた。
卑しい身に生まれながら、身分差別のきびしい社会にあって
彼らが後宮に奉仕し、皇帝の側近として権力を壟断したのはなぜか。
この存在が過去4千年にわたる専制君主と表裏して生きながらえた
中国を中心に、その実体を初めて明らかにしたものである・・と
巻末にある。
アジア、特に中国の歴史において宦官のはたした役割は大きいという。
日本で宦官について最初に論じたのは、東洋史学界の巨匠
桑原博士ではないかといわれていて、大正12年の毎日新聞に
載った「支邦の宦官」という論文だという。
それによると・・・
これまで中国文化に心酔して、あばたもえくぼに見えていたものを
また元の形に戻すと言う意味で「支邦人の食人肉風習」など
日本人には想像もつかない中国人の奇怪な風習をとりあげ
蛮行と決め付け、日本にそれが輸入されなかったことを
わが為政者の良識として大いに感謝している、という。
宦官は中国の特産ではなく、エジプトやトルコ、東は朝鮮まで
地中海からアジアの全地域にわたって存在していた。
そして朝鮮でも李朝末期まで中国と同じように続いていて
世界の文明国のうちでは宦官の存在しなかったのは日本だけだった
ということのようだ。
宦官という言葉は、単に去勢された男性をさす場合と
宮廷に奉仕するもの、と二つの意味があり去勢の仕方も
恐ろしくてすさまじい。
2つの例を引用してみると・・・
古代エジプトでは手術者は僧侶だった。
はじめに細い強い毛糸で局部を結び、かみそりで
結んだところから先を切り取る。
出血は灰や熱い油などで止められ、・・・「略」
へその部分まで熱い砂中にうめられ、そのまま5日ほどおかれる。
死亡率は60%に及ぶ。
南インドでは、陶器の腰掛に座ったのち、事前にアヘンが使用される。
局部は竹片に挟まれ、剃刀を竹にそってすべらし切断する・・
など・・卒倒しそうな事例がいろいろ、ある。
このように命を懸けてまで、どうして宦官になるのか。
それは貧しい者が家の為や、親に孝行するためには
それしか道がなかった、といえる。
宮廷の中での宦官の扱いは、衣食を共にする秘書のようなものでもあるが
飼いならされた「家畜」のようでもあった。
ネズミ色の服に身をつつみ、ちょこまかと動き回る。
老いた宦官は老婆のような姿態になるという。
皇族が宦官を使った事実から考えると、清朝が宦官を使用するように
なった理由のひとつは、奴隷の代用品の意味があったのではないか、と言われる。
彼らは満州時代に野卑を使っていたが、当時の中国社会ではすでに
このような階級は存在していなかったから、野卑の代わりに宦官を
使ったのではないかと言う。
清朝で宦官の弊害をみたのは、満州貴族出身の西太后だ。
咸豊帝のあとを受けて、即位した同治帝はわずか5歳だったので
咸豊帝の皇后、東太后と、同治帝の生母、西太后が摂政し
帝の叔父の恭親王がこれを助けた。
西太后は、やり手で権勢を欲しいままにしたが、同時に宦官を寵愛した。
宦官の安得海は美貌の持ち主で西太后の目に止まり、可愛がられ
西太后が摂政となると、彼も国事にあずかるようになり恭親王を失脚させた。
のちにまた宦官、李漣英を引き立て同治の末から光緒年間にかけて
約40年西太后の信任を得て勢力を奮った。
彼が西太后の威光をかさに、取り込んだ賄賂の額は当時のお金で
5千万円にのぼったと言われる。
近世では、王朝の行く末を左右する諜報活動・戦闘時の指揮官等の
役割まで担い単なる使用人から王朝内での確固たる地位を築くまでに至った、
というから驚きだ。
1908年、光緒帝の死去と前後して、清代、というより中国宦官史に
おいて宦官を活躍させた最後の人物、西太后が死んだ。
1929年清朝が倒れ、4千年にわたる中国専制君主制に終止符が
打たれ、李漣英が最後の歴史的宦官の名をになったという。
前述の通り日本には宦官制度は無かったが、側近政治はもちろんあり、
その最たるものが、徳川綱吉(第五代将軍)の側用人、柳澤吉保である。
彼は綱吉から“吉”の字を贈られほどの寵愛をうけて
見事に大大名(武蔵川越7万石の藩主から甲斐甲府15万石の藩主)となり、
更には大老格まで出世して江戸幕府を牛耳った。
その後、長男柳澤吉里は大和郡山7万石に移封されたが
幕末まで存続した。
日本でも側近政治は多々あり、恐るべきは人間の業か、と思う。
万両 万博公園にて