「偉くなりたくない」

過日のN紙に興味深い記事をみつけた。
読んだ方も多いと思うけれど、少し抜粋してみる。


引用始
青少年研究の活動の一環としての、日・米・中・韓の高校生の意識調査から
日本の若者の特色には「偉くなりたくない」という人生観がある。


「偉くなると責任ばかり多くて損をする」
「リーダーになりたくない」
「何の責任もなく楽しくやれれば一番良い」という考え方だ。


この人生観が、身近なところで最も表れるのはクラス委員であり
最近の学校はクラス委員になり手がいない。
クラス委員になると自分の時間がなくなる。
いろんな注文を受けて雑用が増える。
先生には叱られる。
何もいいことはない。
子どもたちは、責任ばかり重いクラス委員を敬遠する。


高度成長を遂げた日本は、もはや食べるのに困らなくなり
着るものも他人とは一味違う「差異化」の時代に入ったと言われる。


意欲に関する調査で、「暮らしていける収入があればのんびりと暮らしたい」
という考えを「とてもそう思う」と答えた高校生は、米国13.8%、中国17.8%
韓国21.6%、日本は42%に達した。


豊かな時代に育った若者には、昔のような勇気や冒険などはもう必要がない。
新たな目標になったのは「のんびり」である。
それは他人の親切を必要としない時代とも言える。


平凡がいい時代。
日本は1980年代に消費社会に突入した。
消費社会は記号の時代でもある。
大量生産・大量販売の産業時代から他人とは違う「わたし」の
差異化が花開いた時代である。
そうした社会では、自分のアイデンティティも、
他人との差異に求めるようになった。


それまでのリーダー像に代表される偉い人ではなく
違いを示す人間、違いのわかる人間が目標に取って変わった。
自分のなかにアイデンティティを誇張しないでよい時代になった。
普通でいて、生きていくこと自体に何の支障もなくなった。
むしろ、平凡がいい社会となったと自覚するべきだろう。
がんばらなくても、目立たなくてもいい社会になったのだ。」
引用終


ということで、現代の若者像が浮かび上がってきたわけだが
さもありなん、という気はする。


かつての幕末の志士はもちろん望むべくもないが
それにしても、こじんまり、縮こまり自分のことだけに関心を向けて
満足する青年に育つ時、誰がこれからの世を担うのだろうかと
薄ら寒い気がしてくるのは、わたしだけか。

普通がいい、平凡がいいと日ごろ豪語しているわたしも
高校生が早くからそのような意識を持ってしまうと
ちょっとがっかりする。


損得関係なしにもっと自ら汗をかき、冒険をし、
自分のアイデンティティもしっかり持って欲しいものだと思う。


明治時代のお雇い外国人教頭クラークが残した
かの有名な『小年よ、大志を抱け』は、
明治9年(1876年)134年まえの出来事である。


これは、中村正直が英国留学から帰国して明治3年(1870年)
サミエル・スマイル著作の自序論を『西国立志編』として
翻訳出版し、『福沢諭吉学問のすすめ』とともに
100万部のベストセラーのなった後の
クラーク教頭の置き土産であった。


なお、自助論の序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を
「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼である。(ウイキ引用)


高校生よ、高らかに大志を抱け!



万博公園に桔梗がもう咲いています。