『読み、書き、話す』ちから(力)は・・・

取りとめのない駄文を書いてブログを汚している日々である。
いろいろなことを書き重ねているうちに、
良くも悪くも己の作風ができ上がっていくようであり
嬉しくもあり、不満でもある。


明治5年に学制が公布されるまでの子女教育は、
寺子屋での“読み、書き、そろばん”が初等教育のすべてであり、
それ以上は、士族の優秀者には、諸藩校で儒学朱子学)を
中心に学んだことは周知のとおりである。


特殊な例としては、大阪を中心とする商人は“堂島米会所”での
米取引に際して、今で言う“先物取引”を世界に先駆けて行っており、
そこでは気象学やら数学が応用され、このための学習が
日常的に行われていたといわれている。(わたしの聞きかじりです)


ものの本によれば、幕末日本を訪れた多くの外国人が
“すべての人が読み書きをする”と驚愕していたとある。
学問が支配階級の占有であった欧州では考えられない事績だ。


本の学校教育は、主に英国・ドイツの教育制度を参考にしたもので、
教育令が明治12年に公布され、幾多の変遷を経て、
戦後はGHQ(占領軍)のもとに教育基本法(米国式6・3・3制)が
導入された。
それを期に、評論家故大宅壮一(大宅映子は氏の三女)が
駅弁大学”と揶揄したように、一県一国立大学が出現し
米国と同様に日本中が大学だらけとなった。


日本と同じ敗戦国ドイツでは、幸いにして米国によるこのような
押し付けはなかったと聞いている。
その背景には、そもそも米国の大学制度自体が英国とドイツを
手本にして確立されたこと。
また米国での博士号授与制度が確立された1850年以前は
英国やドイツで博士学位を得ていた歴史的事実、
さらには、米国社会の知の分野はドイツ系移民が
担っているためだと、友人は語っている。


戦後には、教育の機会均等が平準化された結果、
大学は出たが、読み、書き、話す力は置き忘れた社会に
なったのではないかと思っている。
それに拍車をかけているのは、昨今のインターネットや
携帯電話通信などによる情報伝達とその変革であり、
それは同時に正しい文章の記述や豊かな表現を
損なう原因になっていると思わざるを得ない。


去る1月13日付けの 花岡信昭氏(1946年 - 産経新聞政治部長、
退職後2009年4月から拓殖大学大学院地方政治行政研究科教授)は
時評コラムのなかで『就職難時代を“地頭”強化で乗り切れ』と
題して文章を書いている。
瞠目する記載があったので、その一部を転載したい。


転載始め

「読み、書き、話す」の3原則を養成せよ
退社してから、非常勤講師を含めて多くの大学にかかわってきたが、
就職内定率57%の中に入れるか、それとも残りの43%にとどまるかは、
日常を見ていると、なんとなく分かるような気がする。


その決め手が「地頭(ジアタマ)」であり「読み、書き、話す」の
3原則がそれを裏打ちするものとなる。
もちろん、明朗、快活、誠実といった性格がものをいうことは当然で
「ひたむきさ」「こころざし」を感じさせる若者が望まれるのは
いうまでもない。


内定率57%は政治の貧困を象徴するものでもあるが、
それをなじったところで始まらない。若い学生には、
人生の試練の場として自己研さんに励んでほしいと望む以外にない。
大学に入学できたらそれで人生が決まるという時代ではなくなったのである。
まず、「読む」ことだ。
新聞、雑誌、単行本などの紙媒体、活字媒体から、
いまの学生たちはあまりに距離がありすぎる。


100人規模の教室で「新聞を購読している人は」と聞くと、
ゼロということすらあった。
まれに何人か手を挙げるが、よくよく聞いてみると
自宅通学者で、自分で新聞を取っているのではなく
家族が購読しているのだ。
そこで「新聞の社説を書いて見よう」というレポートを
提出させることを試みてきた。
テーマを自分で決めて、何をどう認識し、自分の考えを
いかに第三者に説得力を持たせて伝えるか。
その訓練をしたいという狙いである。

「書く」「話す」の鍛錬のコツはこれだ
「書く」ことは「読む」ことによって、力がつく。
何につけ、「模倣」が出発点である。


赤ん坊がしゃべれるようになるのも、母親の言葉を真似することから始まる。
そこで、あえて学生に強調するのは「司馬遼太郎ではなく池波正太郎を読め」「坂の上の雲ではなく鬼平犯科帳だ」ということである。
司馬の本を読んでもいっこうにかまわないのだが、
日本語の奥深さを知るには、池波でなくてはだめだ。
やさしい言葉で人情の機微を表現することができるのが日本語の妙である。
これを知ってもらうために上質な演歌の歌詞を使うこともある。


文章を書くことは「恥をかく」ことと同じだ、とも力説している。
キーボードに向かったら、もうじたばたしても始まらない。
その時点での自分の力量を信じ、踏ん切りをつけて書き出す以外にない。
その呼吸を知ってほしいのである。


「話す」ことについても問題は多い。
とにかく、いまの若者言葉から脱却しないと企業社会では相手にされない。
転載おわり。


わたしは恥多き人間で他人様を云々する資格はない。
『読み、書き、話す』は人間が生を受けてから
墓に入った後にまで(自分の書き記したことが残る)
求められる行為ではないだろうか。
思うことが人の人たるゆえんであり、
その思いを伝えることは『読み、書き、話す』手段しかない。
“歴”を求めて学校に入るが、“類”は得て“学”は
得ない刹那的な社会になったのではないかと、感じている。


わが家のセントポーリア
こたつの上で機嫌よく咲いている。