天の戯れなのか

先日「素敵に年齢を重ねよう」という表題でブログを書いた。
シニア・ナビの面々もそれぞれ、自らのこれからを意図して
取り組んでいることがわかり、あらためて生への意識の深さを知った。


わたしの周りにも自らを愉しみ、生き生きと暮らしている方が多い。
そんな中のひとりにMさんがいる。
彼女は編み物教室の講師である。
以前、市のコミュニティセンターで「手編み」をかじっていたときに
そのMさんと出会った。
当時80代にならんとしていたころだろうか。


明るくて気さくな人柄が人気で、教室はいつも満杯だった。
自作の鮮やかな色のセーターやジャケットを
着こなす彼女は、とてもおしゃれだった。
年齢よりずっと若く見え、受講生のあこがれで、
わたしも、もちろん好きだった。


その後仕事の関係で、時間のやりくりができなくなり
教室から遠ざかり、年賀状だけのおつきあいになっていた。
その賀状も近年、返事が来なくなり「どうしておられるだろう」と
案じていたところ、当時一緒に通っていた知人とぱったり会った。


知人はずっと手編みは続けており、先生のことを訊ねると・・
「あれからすぐに辞められたわ」といい
「ディケアセンターに通っているところを度々見かけるのよ」という。
そのディケアーセンターはわが住居に併設されている。


え?ディケアセンターって・・・?
「マダラ(認知症)らしいのよ」
「毛糸の注文をしても、なかなか届かなかったり、来ても
数量が違っていたり、変だったわ」と言う。


俄かには信じられなかった。


手先や指を使うとボケないと言われていることと
「若い生徒さんたちと話していると楽しいわ」と
受講生との交流を何よりの楽しみとされていた。
息子夫婦と同居はしていても経済的に余裕もあり
いずれは、介護型専門マンションを買って入りたいと言われていた。


決して認知症には、ならないタイプと皆が思っていた
けれど現実にはそういうことがあるのだ。


数年前までの溌剌としたMさんの姿を
思い出し胸が痛くなった。


しかし・・
考えてみると80歳を越して多少の認知症が
現れたからといって、驚くことはないのかも知れない。


人生50年と言われた時代は、子育てを終えると
今のような熟年期などはなく、寿命を終えることが少なくなかった。


命が長くなればそれだけ病気のリスクが増えるのは必定だ。
病気にならない、ボケないと踏ん張って努力しても、
避けられないこともあるのだ。


人間は死ぬまで元気でいたいとだれもが願うが、
天はときには、残酷な形で人間の終焉をもたらすものである。



あちこちに彼岸花が咲き始めました