家風ということ

いまどきは「家風」などあるのだろうか。
吹けば飛ぶような小さな格式でも
わたしが嫁したころは、あった。


結婚して姑・舅と同居していた当時「姑」ほど、目の上のタンコブと
思うほど恐ろしいものはなかった。
大正生まれの義母は、かつての武家の妻のようにカクシャクとしており
結婚したてのわたしには、大きな存在だった。


新聞の投書欄で様々な悩みごとなど読んでいても
「嫁・姑」の確執以外のことなど、まだ苦悩としては
軽いと思うほどだったのである。
それほど抑圧感があった。


大柄な体躯ではっきりした性格の義母は、きつかったけれど筋は通っていた。
その義母に似ていると言い出したのは、小姑ならぬ夫の姉妹である。
料理の味付けから、モノの考え方、捉え方が
だんだん母に似てきたというのである。
確かに、30年ほど経ったいま、姑の影響は大きかったと言える。


姑は3年ほどで他界し、残された舅との同居の生活のほうが長かったけれど
その短い生活のなかで、怖いながらたくさんのことを学んだ。
いわゆる、わが家のしきたりや、生き方の哲学のようなもの・・などである。
若い嫁のわたしには受け入れがたいことも多々あったが
後々、非常にわたしの人生の役に立ったことだけは確かである。


時代は移りいま息子が結婚し、わたしは姑の立場になった。
あのころと同じように若いお嫁さんに諸々を教えて
躾ることなど、わたしにはできないような気がする。


きちんと仕事をこなし、それなりに若いけれどしっかりもしている。
一緒に住んでいないこともあるし、わが娘ですら
たまに苦言を呈し成長を促すと、骨が折れる。
けれどその役目から逃げてはいけない、とも思う。


かつては、家のなかに年寄りが君臨し、その言は絶対のようであり
不承不承ながら受け入れざるを得なかった。
そのなかから生きる知恵を学ぶのである。


子育て、教育、仕事、人間関係など、身近に例はいくつもある。


「大樹のように大きくなりや・・」

姑は、同居している嫁のわたしにいつも言っていた。
隣近所、見回しても夫婦ふたりで暮らす世帯が多く
羨ましく感じていたわたしの胸中を見透かしてのことである。
いま、苦労していることが後に役に立つ・・という諭しのようなものだ。


今は亡き、義母の年齢に達しそのことを痛感している。
あるかなきかの家風を、生き方を、教えてくれた姑に感謝している。
果たしてわたしは、その役が担えるのか、心もとないが・・・。



マユミ (万博公園にて)
この木から弓が作られるそうです