「普通である」ということ

先日一緒に映画を観た友人は、みな60歳を超している。
30年来の旧い、つきあいである。
若気の至りで、深夜まで飲み明かしたこともある悪友だ。
彼女たちとは、沿線が違うせいもあり、めったに会わない。
会えば際限なく話が弾み、つい帰宅が遅くなるという間柄である。



その悪友たちは、日ごろの清貧生活?とは裏腹に
どこぞの、有閑マダムも負けそうな、華やかさを持つ。
高価なモノを身につけているわけでもないのに
おしゃれで、どこかカリスマ的なものを感じさせるのだ。
中高年以降になっても、連れだって歩くと目立つ。
たまに喫茶店や、駅などで同世代の異性の
視線を感じたり、振り返られたりするから面白い。


服装が華やかなら、性格も鷹揚でハナがある。
男性的な太っ腹感があり、めったなことでは動じない強さを秘めている。
それぞれ伴侶との離死別を経験し、事業の倒産などで憂いがあり
還暦や古希を迎えるまでに、ずいぶん辛酸を舐めている。
そのような下地があっての今である。
順風満帆ではない。


3人には、共通項が多い。


「子どものことで悩んだことがない」と、思うほど
それぞれの子どもは、いつの間にか大きくなり親の手を離れ、
そして伴侶や子にも恵まれ、「普通」の暮らしを営んでいる。


子どもだけをみている暇がなかった、というのも幸いしているのか。
長いつきあいで、お互いの家族の歴史は熟知している。
申し合わせたように名のある学校を出たわけではなく、
一流どころの企業に勤めているのでもない。
秀才やお金持ちとは無縁である。


70歳の友人の子息は40歳に手が届かんとするころに結婚した。
最近子どもが生まれ、電車で3駅ほどの距離に住む。
若いころから海外へ行ったり来たりで定職に就かず、
親としては、この先どうなるのかと気を揉んでいたはずだ。
それでも息子を信じて、一切愚痴など聞いたことがなかった。


自分たちの息子や娘たちと、べったりしていないのも似ている。


決して仲が悪いわけでもなく、むしろ情は人並み以上にある。
しかし子どもの家庭に深く立ち入らない。
「なにか困ったことがあれば、相談に乗るよ」ぐらいに、とどめて
一定の距離を置いているのだ。


「子どもたちから相談事を持ちこまれたことがないのよ」
「頼りない親に問題ありね〜」と、みなが笑い飛ばす。
ファミリーがダンゴになって結束しており、夫婦仲が良いのも一番安心できる。
まったく、親に甲斐性がなく子育てに頓着しないと、
子はそれなりに成長するものらしい。


一方において親の艱難辛苦を見て育っており
親の生きる姿勢は少なからず、影響を与えたと言えそうだ。


優雅そうに見える彼女たちには、生活臭が感じられない。
幾度かの試練を乗り越えてきた結果、執着せずに前を向いて歩く。
そんな生き方が自信につながり、顔に出ないのだ。


親子とは言え、必要以上に依存しない。
「冷淡な情熱」を自らに課し、自立した人生を選んでいる。


今の混沌とした時代にあって「普通であること」は意外に難しい。
虚もなく一生懸命、社会生活を営む子どもたちに
老境に向かう親は、密かに感謝している。
ありがとう。