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ものぐさ・・・

 

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いまさら、だけれど「ものぐさ」を検索してみた。

「おっくうで気が進まない。めんどうである」と、ある。

今のわたしに、ぴったり当てはまる。

 

最近「ものぐさ」さに拍車がかかっていることを

認めないわけにはいかない。

長年、嬉々として続けていたことを止めたくなったり、負担に感じたりしている。

これらは認知症の隠れた症状である・・・・とは、

どこかで読んだ記憶が。

ひゃぁ~~怖い。

人の名を思い出せなかったり、単純な語彙が出てこなかったりも

本気で危惧している。

 

昨日は特に怠惰な一日を過ごした。

まさにものぐさを絵に描いたような日だ。

いつもは張り切って5時頃から歩く散歩を面倒に感じ、行くのを止めた。

 

退職してから、それなりに一日のスケージュールを決めている。

いい加減な人間だと吹聴していても真面目くさった側面もあり、

親の言いつけを守る小学生のように、規則正し過ぎるぐらいだ。

 たまにそのルールを破りたくなる。

老化の現れだろうか。

 

毎週、水曜は、夕方から娘のところに孫守に行っており

帰宅が日々の習慣でいうと「夢の中」の時間帯だ。

いくら早起きが信条でも、眠たさを感じる。

それに意識していないようでも、孫守の翌朝は疲れを感じ、

早朝の散歩をサボリたくなる。

 

玄関から出て新鮮な空気を吸いたい。

しかし行きたくないなぁ、などの葛藤の末

自らの「行きたくない本能」に任せ、ずぼらを決め込む。

そんな日は朝のテレビ体操も休みたくなるから、不思議だ。

ずぼらは連鎖するのか。

 

そんなわけで、起きたものの、また布団のなかに潜り込み少し眠った。

お天道さまが上がる時間帯になっても、寝間の中というのも気がひけるが

からだの欲求だと思うと、罪の意識が薄くなるというものだ。

 

そして朝食だけ済ませると、また布団のなかに入り、読みかけの本を読んだ。

こんなとき誰にもとがめられない環境はありがたい。

 

図書館から借りてきている佐藤愛子の著書は

返却が迫っているのに、ちっとも進まないでいた。

佐藤氏のエッセイは歯切れがよく、読んでて膝を打つほど共感することが多い。

しかし、小説になるといま一つの感がある。

(血脈はおもしろかったけれど)

それを知っていて、大方読みつくしたエッセイ以外の本を懲りずに

借りてきているのだ。

 

そして、ものぐさに過ごしたおかげでようやく読み終えた。

「風の行方」上・下巻だ。

最初は退屈で、おもしろくなくて、どうしてこんな本を借りたのだろうと

後悔の念すらあったのだが・・・・

 

期限が迫り、気合を入れて読みだすと意外や意外!おもしろくなってきた。

愛子節が全編に満ちているではないか。

 

学校で苛められている小学生の目を通して、継母のチカちゃんとの交流や

友だちや、家族ひとり、ひとりの内面をおとなのような視線で描写した物語だ。

 

どうして退屈に感じたのか。

たぶん小学生男児のはっきり自己主張できない性格や、

変にこましゃくれた言い回しに、佐藤愛子らしくない趣向をみたのだ。

でも物語が核心に迫ると、教育や現在の家族のありようを憤怒し、

著者のいつもの主張が伝わってきた。

そして崩壊寸前の家族がまとまっていく過程にほろりとする。

 

一歩も外へ出ないで、ページをめくり、お茶を飲み、

アイスクリームをなめつつ、非生産的?な日を過ごした。

このようなズボラやものぐさは、いまの年代だからできること。

幸か不幸かひとりの気楽な生活だからできること。

 

ものぐさが高じて脳の劣化がますます進むのも困るが

ときどき、ガス抜きが必要ではないかと自己弁護している。