お盆のなかで

昨夜遅く、息子夫婦と、娘たち一家は帰っていった。
近くに住んでいるせいか、どんなに遅くなっても
わが家に泊まることをしない。


本当は土曜日の今日、みなが集まることになっていた。
息子夫婦の都合で急遽、金曜日の夜仕事を
終えてわが家に集まることになった。
灯明をつけ、線香をたむけ、亡き人の好物をそなえ
しっかり霊を偲ぶ。
孫の潤平たちも慣れたもので、今では1歳のかえでが
仏壇に深々と頭をたれ、手を合わせ
「じぃじありがとう!」とはっきりと言うようになっている。


あわただしく宴をすませたリビングは、まだ昨夜のなごりがあり
チビたちの残していった、おもちゃや絵本が散乱している。
食卓だけは昨晩のうちに片付けたけれど部屋が
散らかったままである。
ゆっくり掃除しよう。


孫は娘のところに二人いるだけで息子たちには、まだいない。
潤平は遅い誕生日の祝いを叔父さんにもらい、大喜び。
かえでも息子の嫁に抱いてもらったり遊んでもらい大はしゃぎ。
幼な子は、賑やかなのが好きだ。


子どもたちが所帯を持ち、近くに住んでいても
二家族一緒に過ごすことが少なくなっている。
特にムコ殿の休日が変わってから墓参にも合流できない。


13日の昨日はお盆の入りで、亡くなったひとの霊が
帰ってくると言われている。
わが実家などでも、今も夜に提灯を数竿かついで墓参をし
仏様を迎えにいく風習がある。
お盆の入りと終わりは生きている者にとっても
大切な行事とされ、受け継がれている。


このような非近代的と思われるような行事も
ずっと継承されることを願う。


お盆の前後の各地に起こる「民族大移動」はふるさとへ
墓参をかねた帰省のラッシュで
渋滞の大変さを伝えるなじみの光景となっている。
大渋滞をものともせず、帰省する気持ちのなかには
まだ祖先を敬うこころが残されている証だろうか。


昨日は夫の月命日とも重なっており、子どもたちは
それぞれ父親の思い出話に余念がない。
父親とのことをおもしろ、可笑しく語る。
母親のわたしが知らないこもともあり、新鮮な気持ちで聞く。


彼らの中では父親の存在というのは強烈に残っているようである。
夫が死ぬ前に、子どもたちに生きた証を何も残せないと
気弱に言っていたけれど、そんなことはない。
充分、心のなかに生きている。


息子も、娘も、いまだに父親が夢の中に現れているようで
夢の中ではいつも元気に話をし、目が覚めて、
「ああ死んで、いないのだ」と
いうことを実感するらしい。


ともあれ、日々慌しく過ぎていく日常にほんの
ひと時でも、かつてをみんなで共有できる
時間が持てることはしあわせなこと、と思っている。


ありがとう!みんな、集まってくれて・・・。


ひまわりの一種チトニア