「女を売らず女を捨てず」

 

日本の女には二通りしかないような気がする。

ギャルか、おばさんか。

あるいは、ミスかお母ちゃんか。

結婚する前は確かにお嬢さんだったのに、2、3年もすると

名実ともにお母ちゃんになってしまっている女があまりに多い。

「女」がいないのだ。

 

 

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しゃんと自力で地面に立ち、自分の考え方を持ち

それを自分の言葉で表現することのできる女が、いない。

もっといないのはセクシーな女だ。

コケティッシュな女はうんざりするほどいる。

しかし媚とセクシーさとは雲泥の差だ。

媚というのは、表面にとってつけたひだひだ飾りだ

セクシーさは、内側から匂い立つものだ。

 

媚はベトベトしていて不潔だが、セクシーさは、軽やかで清潔だ。

仕事をしている女の人たちが、男たちに混じってきちんと

やっていこうとしたら、媚は厳禁だ。

 

「女を売らないこと」だ。

「女」だということで世間が許してしまうことに対して甘えないことだ。

「女」を武器にせず、「仕事」の内容を武器にするべきだ。

けれども「女」を捨ててしまってもいけない。

「女」を捨てずにがんばるべきだ。

・・・・略・・・・

 

なかなか手厳しいこちらの文章は、平成11年発行の

今は亡き、森瑶子のエッセイ「愛の記憶」のなかの一部分である。

 

女性の精神と経済の自立を促す森瑶子の作品は、好きだった。

一見、クールで激しい気性の持ち主の彼女は

自己主張の強い天衣無縫な女性に感じられるが、繊細さでは

アンビバレンツと言える側面も多々あり魅力的な作家だと感じていた。

 

森瑶子は作品のなかに徹底して自立した女を登場させ

「自己」というものを主張させている。

その歯切れの良さと言ったら!

今でも痛快で、共感すること多しで我が意を得たりの、感がある。

 

「女を売らず女を捨てず」

なんという強烈な言葉だろう。

このエッセイは、40代頃に読んだと記憶しているが

わたしのバイブルのように心に響いたのを思い出す。

 

2,3カ月前から本の断捨離を続けているなか、まだ捨てきれずに残っていた

森瑶子の著書をいま手に取ってみても、充分通じるものがあり膝を打つ。

 

かつて「経済の自立と精神の自立」は、一番のわたしの目指すものでもあった。

病に伏した夫と、妻との役割を分担して、男に伍して、と言えば大げさだが

気概を持って仕事に臨んだ己の励みとなったものだ。

 

特に冒頭の「女を売らず女を捨てず」は、いまだに

気持ちのなかに潜み、忘れることができない。

 

職場では、人脈などに恵まれていたこともあり女性としては、

ポジション的に、異性、同性の羨望や嫉妬の眼も感じていた。

だけれども女を意識して仕事をしたことはない。

 

「女」を武器にせず、「仕事」の内容を武器にするべきだ、という

森瑶子の論は、当然でありもっとも得意とする分野だ。

「問題点は我にあり」というスタンスで仕事は続けて来た。

 

自己の研鑽に磨きをかけつつ、スキルを高めていくことに

喜びを感じていた時代でもある。

水を得た魚のようにイキイキと仕事をしているわたしに

夫も内心ほっとし、救われたのではないだろうか。

 

家計を助けるために働くという消極的意思ではなく

自らの自立を主眼とする生き方が性に合っていて

時代の波に乗り、謳歌することができたことは、しあわせだったと自負する。

 

子どもたちが成長してそれぞれが巣だっていき、夫も他界したいま、

わたしは安穏の境地のごとくの生活を享受している。

 

ギャルかおばさんかの時代もとっくに過ぎ

老年の仲間入りをしているわたしであるが

果たして「女の賞味期限」は過ぎたのだろうかと

素朴な疑問もないわけではない。

 

セクシーさには、ほど遠いけれど、「男と向き合うのは面倒」と言いつつ

形だけでもエレガントさを持つというささやかな、矜持は持っていたい。

 

女を売らず女を捨てず・・・

静かに暮らしていてもまだ心のなかの情熱はくすぶっている。