スピッツのような・・・

ゾリナ


母をワンちゃんに例えると、愛らしい顔立ちのスピッツのような感じがする。
親をワンちゃんに譬えるなど、不謹慎であるけれどいつもそう思ってしまう。
特に晩年、2年ほど病み、病院の世話になることが多かった時期、
クルクルと回る大きな目と、笑っているようなまるい口元で
会うひとごとに「ありがとう」を言っていた母の表情がスピッツ
それとダブルのである。


恨みごとや険悪な言葉を発したことがないニコニコ顔は
まるで生まれたての赤ちゃんのように、穏やかな表情をしていた。
どうしたらそんな柔和な笑顔でおれるのだろうか。
その温和な表情は60歳近くになったわたしには、いまでも真似できない。
その柔和な表情は、母が長年の労苦を乗り越えて得た副産物だったろうか。


花が大好きだった母は、四季ごとにたくさんの草花を植えて楽しんでいた。
いまの季節、真っ白なカサンブランカ、ピンクのカーネーション、
可愛らしいマーガレットなど咲かせ、近所や通りすがりのひとに贈っていた。
かかりつけの病院の待合室や看護師さんなどにも持っていき、
喜ばれていたようである。
5月に逝った母を偲ぶとき、それらの花が同じように思い出される。


大正生まれの母が逝ったのは84歳であり、それまでほとんど寝付くこともなく
同じ敷地に住む長男夫婦とは所帯を別にしていて、
日常のことはすべて自分で賄っていた。
料理も好きだったから訪れるひとには、手早くあり合わせのモノで
料理を作りもてなしていた。
そのような自立した生活が、認知症などとは無縁でおれたのかもしれない。


しかし、がんの発症と多発性脳梗塞を同時期に患い、入院と施設介護を
余儀なくされることとなり、2年ほどで逝った。


軽い脳梗塞の後遺症で言葉が不自由になり、歩けなくなったことは
本人はもとより家族の誰もが予想外で、胸を痛めた。
あれだけ元気で、よく歩き足腰が自慢の母には、歩けないことがかなりの
ショックだったようでその後、歩きたい一心でリハビリに精を出し
ようやく用足しぐらいまではできるようになり、喜んでいた。


それでも話すことには不自由さがあり、最後には筆談で会話をすることになり
うかつにも私は、脳梗塞のひとが「文字を書きにくい」ということを知らなくて
母が書く文字がミミズのように小さく乱れていることに
「きれいな字を書く母がどうして?」心を痛めてばかりいた。


その最期のやり取りをしたノートは今でも大切にわたしの手許に残している。
がんの進行とともに余命が短くなったことを知ったわたしは
あっさり仕事を辞め、母の最期につきあうことをした。
悔いを残したくなかったのだ。


幸運なことに「終末期医療」に詳しく「在宅医療」に積極的な
医者との出会いがあったことも動機となった。
延命治療を行わず自宅に連れて帰り、担当医とケアマネや保健婦さんとの
連携により自宅で最期を看取ることにした。


新緑が目に染みる庭に面してベッドを置き、好きな花を愛でながら
ゆったりと過ごす日々に母は、本当に嬉しそうだった。
まさか、こんなに早く自宅に帰ることができるなんて思いも寄らなかったのだろう。


点滴も投薬も行わず、「好きなものを食べさせて」との医者の言葉とおり
お饅頭やスイカやびわなどを食べ、だるさの他は痛みもない様子で
木が枯れるがごとくその生涯を終わらせた。


その半月ばかりの月日がわたしや、兄弟姉妹や親族にとって
蜜月のような時間だったことを今も思う。


この“最後の選択”をして、今も良かったと心から思えるのである。


スピッツのあの愛くるしい顔に出会うたび、不謹慎ながら
可愛い表情の、亡き母を思い出してしまうのだ。




ルンバ