麗子がいっぱい
岸田麗子・・・
今から90年ほど前、鵠沼には後に日本一有名になる少女が住んでいた。
岸田劉生(きしだ りゅうせい )の長女=岸田麗子(1914-1962)である。
恐らく義務教育を終えた日本人なら、美術の教科書などで
「麗子像」を見たことがあることだろう。
一人の女の子の肖像が執拗と思われるほど
繰り返し描かれた例は他にない。
岸田劉生の名を知らなくとも、「麗子像」を知らない日本人は
ほとんどいない。
・・・・ある資料から
ということで
いま大阪市立美術館で開催されている「岸田劉生展」を観た。
あの暗い絵を描く岸田劉生が、どうしてそんなに人気なのか
解説を読んで納得した。
とにかく、けっこうな人出なのである。
岸田劉生は、1891〜1929(明治24年〜昭和4年)の洋画家で、
5歳から16歳までの愛娘、麗子の輝く生命力を描き出したことで知られている。
劉生展は、麗子、麗子、が、いっぱいである。
時代を背景に素朴な着物姿から、先取りした可愛い洋装までを
成長に合わせ、画家の視点で描いている。
「箱の上に座らされて長い時間、同じ姿勢を
保つことが苦痛で涙を流した、このことを父は知らない」
のちに画家になった麗子自身が語っている。
本人の自画像も多い、多い。
これほどたくさんの肖像画も珍しい。
精悍な顔立ちをしている。
多くの友人たちに贈ったものだろうか。
経歴としては、それほど立派でもないようなのに
華々しい活躍と人気を得たのは、たくさんの錚々たる人物に恵まれ
才能を開花させる機会を与えられたこともあるように感じた。
惜しくも38歳で夭折している。
よろしければご覧ください
http://ryusei2011.jp/works.html
岸田劉生展
絵画展に行く前に、レストランで食事をした。
先に絵を観て、夕方から食事というのが本当はいいのだが
帰宅が夜にかかるのは、最近しんどさを感じる。
寒くなると早いほうが安心する年齢になってきた。
シンデレラタイムを愉しんでいたのは、ずいぶん昔の話である。
変われば変わるものだ。
昼どきだけれど、ささやかな祝宴をした。
入荷したてのボージョレ・ヌーボーで乾杯し
フランス料理に舌包みをうつ。
食べることに忙しく途中の写真はない。
最後のデザートには、お皿にバースデイ・メッセージが・・・
ワインを飲みすぎたのか、絵画展からの帰り
電車のなかで爆睡してしまった。
あやうく乗り過ごすところだった。
危ない、あぶない・・・。
帰ってから「シニア・ナビ」を開くと、ミニメールや足跡に
たくさんのお祝いメッセージが・・・
ひと言が、こんなにも気持ちを熱くするものなのか。
麗子を観たこと、ヌーボーをいただいたのと
同じぐらい、うれしい。
カンレキ祝いは、今までになく心に残りそうだ。
ありがとう。
追って ・・・
絵画に不案内の私は、38歳の短い生涯と残した作品郡に比して
岸田劉生氏の知名度が極めて高いことに、素朴な疑問をいだいて
美術館に赴いた。
疑問の解消は私なりにできたので簡単に追記したい。
1.小・中学校の美術教科書に愛娘「麗子」の肖像画が
掲載されて全国的な馴染みになっている。
このため作者の名前は知らなくても「麗子」の絵は
記憶にある人が多勢である。
今回の美術展の241点に20点の「麗子」が展示されている。
麗子肖像から始まり、坐像、裸像、立像、提灯を喜ぶ
十六歳の像などなど。
2. 得がたい人脈が世にでる助けになっているようだ。
画家になる登竜門である東京や京都の美術学校は卒えていない。
(両親が中学生の頃死去)
しかし赤坂にあった白馬会研究所で黒田清輝氏(東京美術学校教授で
後に帝室美術院=今日の日本芸術院の2代院長)に師事したことである。
1番肝要なことは、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎などが
起こした文学雑誌『白樺』の人物の知遇を得たことが挙げられる。
それには、柳宗悦やバーナード・リーチも連なっていた。
さらに、草土展には初回から最後の9回展まですべてに出品している。
草土社のメンバーは木村荘八・清宮彬・中川一政(後年文化勲章を受章)
椿貞雄・高須光治・河野通勢らである。