マリー・アントワネットの宮廷画家(ルイーズ・ヴィジェ・ルブランの生涯)

『わたしはロンドンのキングズ・クロス駅からパリ北駅行きのユーロスターに乗り、一路パリをめざした。3泊4日の小さな旅に胸が躍る。2時間半足らずでパリに着く。20年ぶりのパリだ。めざすはルーヴル美術館ヴェルサイユ宮殿。金曜日は、ルーヴル美術館が夜9時45分まで開いているので、ゆっくり鑑賞できる』

これは私の紀行文ではない。
正月に読んだ石井美樹子氏が著した標題の書籍(河出書房新社)の
冒頭からの引用である。

これ以降はわたしの読後感である。

17−19世紀には文化の中心といわれ、19世紀後半に印象派
輩出したパリは憧れの街であるが、わたしはいまだ訪れていない。
そんな訳で、荻原朔太郎の詩をしばしば想い起している。


 「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し
 せめては新しき背広をきて きままなる旅にいでてみん」

今年こそは、ルーヴル美術館オルセー美術館、国立近代美術館と
ヴェルサイユ宮殿、更にドーバー海峡を渡り、
ナショナル・ギャラリーなどを訪問したいと思っている。
近世と近・現代絵画三昧の旅はこれからの人生の大きな刺激になり、
数々の名作映画の舞台となったパリの空気も味わってみたい。


標題の書籍は、画家ルイーズ・ヴィジェ・ルブランの
生涯の事蹟である。
ルイーズ・ヴィジェ・ルブランといっても、ダ・ヴィンチ
ミケランジェロゴッホルノワールピカソなどに比して
全く馴染みのない画家である。

ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン。
(1755 - 1842年:日本では徳川10代将軍前後)
正式名はマリア・エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン
(Marie Elisabeth Louise Vigée Le Brun)。
ヴィジェは画家であった父の姓で、ルブランは夫の姓である。
(婚姻生活18年で遊び人であった画商の夫とは離婚)

(ルブランの自画像)

当代随一のロココ美術の女性画家として名声を馳せ、
生涯(享年87歳)の作品は660点の肖像画と200 点の
風景画を残している。
作品はベルサイユ宮殿やルーブル美術館を始め、
ウィーン美術史美術館、エルミタージュ
美術館(ロシア)、ワシントン・ナショナル・ギャラリなどに
展示され、日本では東京富士美術館が3点所有している。
また『マリー・アントワネットの画家、ヴィジェ・ルブラン展』が
三菱一号館美術館で2011年4−6月に開催された。


本書には『ルブランは18世紀のヨーロッパで最も有名な画家だったが、日本では殆ど知られていない。本国のフランスでも一世を風靡した実存主義哲学者S. ボーヴォワールの著作「第二の性」の中で批判されているので、近年まで忘却の彼方に追いやられていた』とある。


自らが極めて美しかったルブランは、描く被写体の容貌や
性格を豊かな感性でとらえ、そこで生まれる感情的反応を
キャンバスに映し出す想像力の持ち主であった。
(常に実際の容貌より美しく描いていた)

彼女と同い歳のマリー・アントワネット
(フランス国王ルイ16世の王妃)の肖像画を
21歳で描き始め、王妃から多大な庇護を受けた。

狂気のフランス革命のギロチン犠牲者になるのを恐れ、
1789年(34歳)に農婦に身をやつし幼い娘を連れてパリを脱出し、
以降イタリア(3年)ウィーン(1年)ロシア帝国の首都
サンクト・ペテルスブルグ(6年)ベルリン(1年)に滞在し、
13年振りに政治が収拾されたパリに帰国。
(行程のほとんど馬車での移動で、夜間は宿泊の旅)

ルブランは訪問先の各地で多大な歓迎を受け、王侯貴族から肖像画の依頼があり、特に権勢を極めたロシア帝国エカテリナII世女帝の愛顧を受けた。(ベテルスブルグ到着の翌日に
面会が許されるほどの画家であった)


聖ルカ画家組合員(19歳)、マリー・アントワネットの推挙で王立アカデミー会員(24歳)、ローマ聖ルカ画家組合員(35歳)、サンクト・ペテルスブルグ芸術アカデミー会員(45歳)、ベルリン・アカデミー会員(46歳)など多くの都市の芸術会員に推挙されている。


わたしは西洋の女性画家に関して格段の知識をもちあわせていない。
欧州の王侯貴族が列をなして肖像画を依頼した女性画家ルブランを今回読んだが、日本の女性画家の出現との彼我の差を感ぜざるをえない。


日本の女性画家の先駆者としては、ルブランより120年後に
生まれた上村松園(1875年<明治8年> - 1949年<昭和24年>)がいる。


松園が生れた明治初期は、いまだ江戸時代の生活習慣が残って
女性の社会的進出は皆無であった。
そうした社会形態のなかで、まったくの男社会の画壇で生き抜くには
多くの差別や妨害、さらには女ゆえの社会の圧力があったと、
小説『序の舞』に宮尾登美子は書いている。


未婚の母として二児を出産し(長子は赤子の養育先で死亡。
二子は松篁で後に文化勲章を愛く)、優れた作品を多数制作して
女性として初の文化勲章を昭和23年に受賞している。

マリー・アントワネット
(1755年- 1793年フランス革命中にギロチン刑死)
フランス国王ルイ16世の妃。ハプスブルク家神聖ローマ皇帝フランツ1世の十一女、母はマリア・テレジア


この本はルブラン自らが79歳の時に出版した回想録(1−3 巻)を
参考にして書かれており、アントワネットの生の声や生活が伝わってくる。それらは極めて新鮮だ。



(白いサテンのパニエ入りのドレス)


上の画は、ウイーン美術史美術館が所有する1778年に
描かれた王妃の全身像画である。
高く結い上げた髪を大きな駝鳥の羽根の付いた小さな帽子で飾り、
右手にピンクの一輪の薔薇を持ち、スカートが大きく横に広がる
パニエ入りの白いサテンのドレスに身を包んでいる姿である。


画面右側に正義の偶像が刻まれた台座の上に
ルイ16世の胸像が置かれている。
(ルブランが自ら描いたこの画の模写がエカテリナ女帝と
アメリカ議会に贈られ、2点がヴェルサイユ宮殿に所蔵されている)


王妃の段飾りのスカートの縁は金糸の飾りの房で縁取られ、
青いビロードの長いトレインにはフランス王家の
紋章の百合が金糸一面に刺繍されている。
王妃は幅の広いフープと長く引きずる裳裾の宮廷用ドレスを
見事に着こなし「ヴェルサイユのすり足」を習得し
床を滑るように歩いた。

(シミーズ・ドレス姿)

この画は、先に紹介した画と全く趣きが異なる。
当時の上流階級の間で流行っていた衣装はロココ調の
装飾過多のゴテゴテしたもので、髪を高く結い上げ、
さまざまな飾りを付け髪粉を振りかけていた。
鬘と髪粉は宮廷生活の象徴であった。


ルブランは、モデル(肖像)が最も優雅に優しい風情を醸し出すようにゆったりした衣装をまとわせ、深みのある優雅な王妃の肖像画を1783年に描いたのがこの画である。

ふわりとした白いモスリンのドレスを透けるシロンデで
蝶結びにしたシンプルな衣装をまとった王妃である。
普段着姿の親しみ易い王妃のイメージで、灰色の
大きな駱駝の羽根の付いた麦藁帽を
かぶって、王妃のシンボルの薔薇を手にしている。

(この肖像画は落ちぶれたオーストリア女などと言われ物議をかもしたが、この画の主題がオペラ座での上演作品になったりして、身体を拘束しない軽いシミーズ・ドレスは宮挺婦人や上流階級の婦人のあいだで大流行となった。ココ・シャネルの発想の原点はここにあったのかと私は想像している)

フランスにとってオーストリアは不倶戴天の敵国であり、
そのオーストリア出身のアントワネット王妃を
「贅を尽くす生活をしてフランスの財産を浪費した」と
フランス国民は糾弾したと伝えられているが、
アントワネットの素顔は、そうした下世話には馴染まない。

(ハプスブルグ家のアントワネットを故意に悪者にしたのは、
ちょうど明治新政府佐幕派を徹底的に賊軍扱いしているのに
似ている。
朱子学と武士道精神に基づく天朝への崇拝を懐いていて孝明天皇
守った京都守護職を務めた会津藩こそ被害者であろう)


王妃と親しく時間をともにしたルブランは語っている。
彼女が子供のころ母とマルリー・ル・ロア公園を散歩中に、
侍女を伴い散策中のアントワネット王妃と遭遇し、
お辞儀をして道を譲った際『道をお譲りくださる必要はありません。
散歩を続けてください』と。一行はまるで妖精の女王の行列であった。


『アントワネット王妃さまに会ったことのない人に、優雅さと高貴さが完璧な調和をなしているその美貌をつたえることは難しい』


『王妃の額は少し出っ張り、鷲鼻、細長い卵形の顔と
つんと突き出た細い顎、瞳はさほど
大きくなく青いというより灰色に近い。
しかし表情は知的で愛らしく、鼻筋は美しい。
口は小さく、唇はぼってりしている。
何よりも素晴らしいのは明るく艶やかで透明な肌である。
輝く色白の肌と生来の血色のよさは「オーストリアの風の唇」を
引き立てていた』


最後に、著者(昭和17年生)は大学教授なので、ルブランの事蹟を中心として本書を執筆している。
これがロマン(小説)仕立てならば、アントワネット王妃、フリードリヒ大王(プロイセン王)やロシア帝国エカテリナ大帝などを散りばめた、さぞかし魅惑的な本になっていたのではないかと思う。