「善人は自分勝手に幸せになれるけれども
周りの人は不幸になることがあるの。
善人は自分に自信があるから困るんですよ。
人の心がわからなくて、自分が善人であることに
あぐらをかいているから」
曽野綾子のエッセイ「善人はなぜまわりの人を不幸にするのか」の
一章である。
そのなかで、善人が他人を不幸にする理由に対して
以下のように触れている。
わたしは、最近おもしろい嫁と姑との例を聞いたばかりである。
嫁がかわいくて、かわいくてたまらぬ、という姑がいた。
嫁も姑になついて、こんなにまで親身に思ってくれるおかあさんは
めったにいるものではないと思って親しんでいた。
ところがこの嫁はまもなく心臓の発作を起こすようになった。
そうなると姑さんは心配でたまらない。
いつなんどき嫁に発作が来て重大なことになるかもしれないと言うので、
昼は枕元に付き添い夜も布団をしいて添い寝をした。
それでも心臓は一向に良くならない。
入院させたら(ということはつまり姑を引き離したら)
嘘のように症状が軽くなった。
軽々しい解釈は控えないといけないけれど
この嫁は、実は姑を憎んでいたのである。
二人はともに愛と憎しみの本質を、見極めていなかったのである。
彼らは善意の人々であったのだろう。
その心に他人との間にも、実の母子同様の感情が
成り立つという美談を自ら認めたかったのだろう。
しかし、善意の人々の困るところは
善意であると彼らが信じたがっているものが
しばしば、真実を見ることを避けさせ、そのために
知らず知らずに相手を傷付ける結果をもたらすことである。
この姑は、嫁をそれほどかわいくはなかったのだ。
むしろ息子をとられたと言う憎しみが人並みにあったとさえ思われる。
しかし、この老婦人は、その醜い感情を素直に自分に
受けいれることを容認しなかった。
そのために愛と言う名のもとに、嫁が息子と近づけない残酷な方法を、
次から次へと考えだし、しかもそれを意識しなかったのである。
以上はひとつの例であるが、なるほどなぁと膝をたたく思いがした。
似たようなことは案外、まわりに多いのではないだろうか。
善意と信じてやっていることが、相手に過剰な負担を強い
相手の自立心を損なうことのなんと多いことか。
また次のような一節に・・・・
模様が下手で配色がおかしくて
技術が悪いアフリカの刺繍には時々まいることがある。
そういう刺繍が日本の教会ではバザーで売れるなどという
幻影を抱かせることは、過剰な親切でよくないと思う。
売り物にならない技術だということを
はっきりわからせることが、むしろ本当の親切である。
アフリカの人に差別を抱かず平等に付き合う、と
いうのなら、こんな下手な刺繍はだめよ、とも
言えなければならない、とも述べている。
アフリカなどへも何度も足を運び、人間の生きて行く
本当の厳しさや、一見優しそうに見える現地の人の
とんでもない素顔に触れ、驚き、逆に期待していないところで
嬉しいことに遭遇するなど、人の本質をたっぷり見聞きしている。
だからきっぱり言えるのだろう。
日本人は、何事もきれいごとや美談が好きな国民性である。
必ずしもそうではない現実があることを強く感じた。
それでなくても還暦も過ぎる年齢になると物事の分別や
真意が透けてみえるようになる。
歳を重ねるというのは、そういうことかもしれないと
曽野綾子の冒頭の著書を気持ちがすく思いで読んだ。