情に訴える
娘のところには1歳、4歳 7歳の子どもがいる。
二人しか育てたことのない母親のわたしからすると
傍でみていても大変そうである。
ひとり多いだけでこんなに違うものかと
その賑やかさに圧倒され、驚く。
一瞬、一瞬、ママは真剣勝負であり、片時も目が離せない。
バレーボールを始めた娘のために週1回娘宅へ留守番に行く。
めったに親に依存しない彼女だが
さすがに3人となるとそうはいかない。
チビたち全員を連れていくわけにいかない。
手がかかる時期に少しでもママの負担を軽くしてやろうと
ばぁばも子守に発奮する。
行くといつも臨場感あふれるドラマがある。
7歳、4歳の兄妹がママの怒りを買い、きつく叱られたりする場にも遭遇する。
ふだん舐めるように子たちを可愛がっている娘だが
時と場合によっては鬼のような形相になり。
汚い言葉で罵倒し、ときには、体罰もある。
傍でみているばぁばは、我がことのように痛みを感じとても、見ておれない。
躾に関してあまり口出しはしないことにしているが
孫たちの気持ちの逃げ場として受け止めてやる。
よくしたもので4歳も、7歳もそれぞれ片方が、こっぴどくママに
怒られているときは、それぞれお互いをかばい合う。
「ママ~、○○ちゃんを許してあげて!」
時にはどちらかが、外にほおり出されそうになると
手を広げ、小さいながら盾になり、ママを阻止する。
「連れていかんといて!」
ケンカしていても、ここぞ、というときは兄妹でスクラムを組み
お互いを守ろうとしているところが、いじらしい。
先日もあることで4歳が、ママに怒られた。
叱る領域を超え、感情も相まって、まさに「怒る!」だ。
いたずらが過ぎて、相手や本人に危険が生じる恐れが
あるとき、大きなカミナリとともに、足やお尻をバチーンと叩かれる。
ものごとの善悪を教える上で、その場で対処しなければならない。
その剣幕たるや、おとーさんより、怖い。
そしてそれ以上にチビたちを怖がらせているのが「オニさん」である。
「ごめんなさ~いっ」
「もうしませんっ」
「だからオニさんに言わんといて~~」
泣きながら、気をつけぇの姿勢で、からだを二つ折りにして必死に許しを請う。
ママとふたりの子どもたちのあいだで童話からの引用の
「鬼の怖さ」は、了解済みであるらしく
ママの「さぁ赤いオニさんに言おうか」
「青のオニさんに電話しようか」などの言葉に、二人は縮みあがる。
ふだんは、4歳にも7歳にも因果を含めるように
していいこと、悪いことの善悪をゆっくり話しているママも
「虫の居所いかん」によっては、このような威嚇の手段を取ることもある。
子育ての若いころ、ばぁばも髪振り乱し、感情的に子を叱ったこともある。
そして、うっすら涙の残る寝顔をみては、反省したものである。
ママとチビすけたちの「戦争」を見るにつけ
かつてのわが子育ての不備をつかれているような気持ちになる。
逆に喜びごとや、面白いことも同じように多々あり
感動することしきりだ。
しかし、子を叱り、教え導くということは何と忍耐がいることか。
「我が子ならでは」こそ、である。
他人ならそこまで真剣に関わりはしない。
人間が人間たるゆえんは、こうして日々の営みの中で人間形成が培われるからだ。
泣いたり笑ったりしながら親も子も経験を糧に学び、成長していくのである。
そういう意味ではケンカなども含め、体験は豊富なほどいい。
自分にとって嬉しいことも、不都合なことも人間が鍛えられる。
ただ、「叱り方」にもルールがあり、
威嚇や脅しでは効果はないと思えるときもある。
子育てのころ、姑から教えられたことであるが
頭ごなしに怒るのではなく、
どうして良くないのか・・・
「お人形さんが痛い痛いと言っているよ~」と
モノには命があること、感情があることなどを教える。
親が本当に悲しい顔をして、困ったように
しんみり「子どもの情に訴える」接し方をする。
子ども自身に気づかせる関わりをすることが大事だと。
親が本当に辛い顔をして話すと、子どもながらに
やってはいけないのだ、と体得する。
繰り返し、考えさせ教えると同じことは2度としないようになる。
「今しかない」それぞれの時期を真剣に子と向き合い、育んでいく。
子と親との信頼が厚いと、困難なことに遭遇しても子はブレない。
自ら考えて立ち向かう人間に育つだろう。
これこそ親業としてのおいしい果実ではないのか。
未だ完熟していない果実を前に、ばぁばは、ひとりごちる。