最期のとき

Y紙の医療ルネッサンスには「最期を選ぶ」というテーマで
様々なひとの最期のときや選び方、迎える様が連載されていて
終末期医療とともに関心を持って読んでいる。


同時に人間が旅立つとき、元気なころからの意思表示が
大切だということをあらためて思った。


そんなことから、実母の最期について少し触れてみたい。
母は2年ほどの病を得て84歳で逝き、今月末に丸7年を迎える。


元気で花や野菜を作り、機嫌よく暮らしていたのに
あるとき、電話で話していると「どうも話しづらい、舌がもつれる」
と言う母の言葉が発症の兆候だった。
同じ敷地に住む長男夫婦とは食事も生活も別にしており
義姉も勤めていることから、昼間も一人が多い。
その症状にはっきりと気づかなかったこともあり
ついに脳梗塞を発症した。


最初は軽く済んだがそれでも言語や右半身にマヒが残り
歩けなくなったのである。
義姉は勤めがあり、不本意ながら近くの施設で
預かってもらうことになった。


いつもよく歩き、足腰を鍛えていた母は自分が
「まさか、歩けなくなるなんて!」と嘆き、
情けない思いが人一倍あったようだ。
歩きたい一心でリハビリに励みトイレも
一人で行けるようになり、ご飯もこぼしながらでも
介助なして食べられるようになり喜んでいた。


車で数分の距離にある施設から週末ごとに家に帰り
兄夫婦と過ごせたことは、母にとって少しの慰めだったといえる。


往ったり来たりの施設や病院生活を1年ほど経験したころだったか。
今度は体がだるいと訴え、
「すい臓がん」を発症していることがわかった。


高齢にも関らず母は、体のだるさから脱したいために
手術を望み決行した。
麻酔から覚めた母は、錯乱に陥りわたしたち兄妹は
どれだけ危ぶんだか知れない。
時間の経過とともに意識ははっきり戻り
入院と施設との生活が始まった。


母は、病院以外は自宅での養生を望んでいた。
しかし義姉を始め、近くに住んでいる姉も(母からすると娘)働いており
わたしも遠く離れて住んでいて、看てあげられないことに申し訳なさを
感じつつ日が経っていった。


このような状態を予期してか母は生前
「お父さんは(夫)は、わたしが看たけれど、わたしは誰がみてくれるのだろう」と案じていたようである。


まったく娘が何人いても親不孝なわたしたちである。


わたしの夫の最期のころと母の病気が重なり
わたしにとっても、一番辛いときだった。
夫は長い闘病の末に逝ったけれど肝心の最期には
ゆっくり看て上げられず、ずっと悔いとなっている。


母の余命が短いことを知り、悔いのない最期をとの思いから
夫の逝った年末に仕事をきっぱり辞め、母を看ることにした。


といってもこちらには、働き出した子どもたちがおり
そんなに家を長く空けてもおれず
月の半分から10日ほどを、早割りの航空券を使って行き来していた。


そのころまだ「終末期の医療を自宅で」というのは地方では珍しく
往きつけの病院が運よく、それを取り入れていたことから
母の願いとおり家で看ることになった。
姉たちとの連携である。


理解のある医者とケアマネージャー、保健婦さん
それぞれがチームを組んで母の最後につきあってくれた。
点滴や薬など、からだの負担になるものを一切排除し、
食べたいものを食し、わが家のベッドで団欒し
ゆったりと親戚や知人や家族に見守られ
本当に安心したように息を引き取った。


あのころお世話になった方々にはいまだに感謝の念が深い。


わたしたち兄妹も少しだけ親孝行ができたか、と
そのことに関しては悔いはないと思っている。


新聞の連載にあるように、自宅で最期を迎えることは
いまや至難のことであるらしい。
自宅で介護しながらの容態の急変は、救急車を呼ばないこと、
と結んである。

病院に運びそのまま逝くと検視などがあり
大変なのだという。


人が人間らしく尊厳ある死を迎えるために
生前の意思を伝える指示書なるものが必要であるらしい。
どのような最期を選ぶのか元気なうちに考えておかないといけない。