ホテル物語
わたしは、今でもシティホテルが好きだ。
退職してのち、外出がめっきり減ったけれど
人との待ち合わせには、ロビーを指定することがある。
たいていの場合わかりやすい場所にあり、行きやすい。もちろん近隣の喫茶室や本屋さんでの約束がだんぜん多いのだが10回に1回ぐらいは、都心まで出向き、ふだんより少しドレスアップして静かな雰囲気の中で会話を愉しみたい。
ヒールも履きづらさを感じるようになったけれど足元もばっちり決めたい。
ここ10年ほど着物にも手を通していない。
大人のおんなを演出できるシックな色合いのそれを引っ張り出してみたいと思うのもそんなときである。ホテルには着物がよく似合う。
ヴィバルディ・ディの四季などのバロック音楽が流れるなか、
待っているあいだに胸が少しずつ高鳴ってくる。
その高鳴りはときめきに変わってゆく。
ホテルの持つ匂い、優雅さ、コンシェルジェや
ベルボーイの立ち居振る舞いなどは
しばし日常を忘れさせてくれる。
しかし、かつて玄関ロビーを豪華に飾っていた生け花などは、
だんだん小さくなり、ときに造花になったりしているのにはがっかりする。
行き交う人の人間観察がおもしろいのもホテルである。
緊張感を持ったビジネスマンや、国内外の観光客などが
慌ただしく、そしてゆったりと出入りする様も、時代を映す。
しあわせそうに見えるひとの表情に一瞬陰りが見えどんな暮らしをしているだろうか、と
あらぬことまで詮索する自分に、おかしみを覚える。
ひところ、隣の韓国や中国人の団体がにぎわい日本人と似たような顔つきをしていても、しぐさや大きな声でしゃべるそれですぐに区別がついていた。
最近は、静かである。
雑多な思いを巡らせ、ちょっぴり贅沢な時間を味わう。
格別おいしいとも思えないコーヒーに対価を払っても
惜しくはないと思えるのもそういう所以からだ。
20年以上もまえに逝去したが「森瑶子」というベストセラー作家がいる。
彼女ほど、ホテルが似合う女性もいないのではないか。
頭のてっぺんからつま先まで、「おしゃれ」が歩いているようで
つば広の紺の帽子を斜めにかぶり、深紅のルージュがひときわ鮮やかだった。
講演などを聴きに行くと、20、30代の女性から
熟年女性までが会場を熱くし、その柔らかい語り口に心酔していたものである。
握手をしたときの子どものような手の感触と凛とした姿勢。
「ローマの休日」のアン王女と記者団との握手を想像するほどである。
作品の強烈な印象と相まって、実像のギャップと重なりを認識し、
ますます惹かれていったことを思い出す。
「女性の経済と精神の自立」をテーマに、一貫して
エッセイや小説に自分を投影していた作家である。
「自分の食い扶持は自分で稼ぐ」厳しさを課していた。
彼女はイギリス人の夫と結婚し、傍目には羨むような生活のなかに
どケチな夫との間に、精神の猛烈な飢餓を催し、
溜まりたまったマグマが噴き出すように作家デビューした。
処女作「情事」で賞を射止めたが、繊細な彼女は
胃がんを病み、デビューして20年ほどで早世している。
30代のころ、彼女の作品を貪るように読んだ。
同じような時期に、わたしも自分自身に大きな憂いを抱え
作品を読むたびに気持ちのはけ口とし、生き方のエネルギーを得ていたのである。