親と子のあいだには・・・
息子夫婦、娘家族と夕餉を囲み
チビスケたち(孫)相手に遊んでいると
「オカン、そんなに、マゴって可愛いか?」と、息子が訊く。
同じことを何べん、聞いたか・・・。
息子夫婦に、まだ子はいない。
「そりぁそうよ。泣いてもグズっても、可愛いもんヨ!」わたしは答える。
「オレたちのときと全然違うなぁ」とでも、言いたげである。
そりゃぁそうだ、わが子を育てるときは余裕などなかった。
息子や娘が、小学校や幼稚園へ入るころに父親が病を得た。
だから「いつの間にか大きくなった!」というのが本音である。
長い闘病のあいだには、思い出したくもない辛いことも多々ある。
「おかぁさん、ようやってきたよね」
「わたしやったら、ようせんわぁ~」
娘が結婚してから労うように口にする。
人間、土壇場になると意外と強い。
順応するのだ。
せざるを得ない、と言ったところか。
息子が、孫を舐めるように可愛がっている母親を
不思議そうに感じるのには、わけがある。
いまわの際で、夫が「子どもたちに厳しく躾し過ぎた」と
悔いるほど、わが家は徹底して子どもたちに厳しかった。
「門限が6時やなんて・・・」と中学時の娘の不満が
いまだに聞こえるほどだ。
大きくなるにつれ、門限や就寝時間はずらしたけれど
一貫して、規律は守らせた。
よそと比べては不平をいう子どもたちに
「よそは、よそ!よそがいいなら、よその家の子になれ!」
特に父親は手厳しい。
わが家は、夫の発症から役割交代して
わたしが外へ出て稼ぎ、病弱な夫が家事労働をする。
そんなことが、夫が死するまで続いた。
だから、思春期の子どもたちの成長過程は
母親のわたしより夫のほうが密着度が高い分、よく知っている。
子どもたちの誕生パーティのケーキを焼いたり
友達を招き「ゴチソウ」を作ったのも父親の役目だ。
必然的に彼らの交友関係にもわたしより目が届く。
息子は、父親と一緒にプラモデルを作ったり
ラジコンで遊んだり、木工細工を楽しんだり、と
密度の濃い父子関係を築いていた。
似たような世代の家族が多い集合住宅に越して来た時に
一番心を砕いたのは、子どもたちがすんなり
近隣の子たちと仲良くなれるように、ということだ。
当時、専業主婦ばかりだった同マンションの母親同士の
おつきあいは、退屈でどちらかとうと重荷。
それでも「お茶会」などに呼ばれたら積極的に参加し、
一緒に子どもたちをつれて小旅行もした。
おかげで母親同士の和が図れ、子どもたちも新密度が増したが
そのなかにひとりだけ、息子と同学年の男の子が
意地悪をし、ついに学校で怪我をして入院するに至った。
小さいことには、ある程度目をつむっていた夫も
堪忍袋の緒が切れて、その親子をわが家に呼びつけ、はっきりと宣言した。
「今度何かあったら許さん!警察に言うからなっ!」
当時、いじめも今ほど陰惨ではなく、鷹揚に受けとめ
ましてや学校からの謝罪など、ない時代である。
「どうしたらいいんですか・・・」オロオロと
身を縮めて謝る母親と、平然として罪の意識のない
その息子にきつく、きつく、叱った。
彼の父親は有名企業の役職につき、昼夜問わず働く企業戦士である。
完全な母子密着型の家族であった。
わが家は、母親が外に出て、父が家にいる
ヘンテコリンなスタイルだったが
毅然として、「親は、子を護る」姿勢を
父も母も崩さない。
病弱であっても、父としての威厳を失わず
しっかり、子どもたちを見てくれたことは、救いである。
母親に溺愛された、という記憶がないのか・・・
息子は30代後半の今になっても
幼少のころの思い出を引っ張り出し、確認しようとする。
息子や、あんたも充分可愛かったよ。