無駄と思えることが・・・



当時のイラストは髪が短い。


30、40代のころのわたしは、買い物好きだった。
いま思うとずいぶん無駄をしてきたような気がするが
さすがにいまは物欲が低下して来ている。
若さというのは、物欲に関係あるのだろうか。
かつては困ったことに収入の割には目だけ肥えていて、
お構いなしに気に入ったものだけを買う無謀者だった。
いまでもそうだが貯蓄には縁がない。


雑誌「家庭画報」がお気に入りで、鮮やかなグラビアをため息ついて見ていた。
アクセサリー類を含め、ファッションはゼロがひとつも
ふたつも多いプライス郡である。
そんな高価な服は高嶺の花であるが
好きなブランドはあって
年に一度ぐらいは分不相応に求めたりしたこともある。


いまなら、もったいなくて到底そんなことはできない。
しかし・・その時代の「トリイ・ユキ」や「シマダ・ジュンコ」の服は
いまでも充分エレガントさを保っている。
娘の入園式に着たワンピースなど落ち着いた色合いで
生地もデザインもオーソドックスなものだ。
20年以上経て袖を通してみるとカジュアルに慣れた
いまより上品な感じがしないでもない。


そういえば長いこと着物に手を通していない。
和服は着る前もあとも手がかかるのでエネルギーがいる。
よっぽど元気でないと着られない。
夫が生きているころは、この面倒をものともせず着ていたものである。


友人との食事やたまにある、パーティに引っ張り出していた。
やわらかい着物より、街着的な感覚で着られる「紬」がいまでも好きである。
ザラザラとした感触の着物に、同系の帯を合わせると気持ちがきりっと引き締まる。
襟元を固く合わせる着方より、少し着崩すぐらいの方をわたしは良しとしている。
理想は「料亭のおかみさん」のような粋な着こなし。
ようやく紬で闊歩してみようか、などと思い始めている。


思えば、夫が病気であっても欲しいものは我慢しないで手に入れていた。
「よっぽど稼いでいたのね」知人に言われる。
女の稼ぎなんて、男性に比べたら知れている。
それでもそんなことが出来たのは、思い切りの良さと
「現実逃避?」のせいかとも思う。
コンサートや美術館めぐり、小旅行など
今の落ち着いた生活のときより
もっと頻繁に行き、わが身を愉しませていた。


物欲の満足感や、目に見えない感性を大事にする生き方が
当時のわたしのエネルギーになっていたのではないか、と思える。
無駄に見える自分自身への投資のおかげで自らが病気もしないで
生きて来られた、と思っている。


※※※※


以上は2007年の12月ごろに記した日記である。
今も、このことに対する思いは変わらず
そのとき、そのときを、それなりに精いっぱい
生きてきたなぁという感があり、悔いはない。


少しずつ齢を重ねると、物欲というものは
どんどんそぎ落とされるものらしい。
ひっそり?と修行僧のように生きている今のわたしには
同じような物欲は願うべくもないが
欲する対象となるものが変わっていることは、はっきりしている。


無駄と思える買い物のひとつ・・・
つむぎの着物をボツボツこの秋ごろから引っ張り出そうか。